HISTORY

日雇い労働者の街
釜ヶ崎の歴史

釜ヶ崎という特別な地名
釜ヶ崎というのは、新今宮駅南側の萩之茶屋1丁目~3丁目周辺を差す地名である。現在の地図に「釜ヶ崎」の記載はない。しかし、釜ヶ崎、または「カマ」と言われ、現在でもこの地名は使われている。「釜ヶ崎夏祭り」や「釜ヶ崎人情」など、自身の街に愛着を持って「釜ヶ崎」「カマ」と使用されるケースが多い。元々は西成郡今宮村にあった地名であったが1922(大正11)年の新町名導入により旧名は消えた。それでも、地名が残り続けるのは、釜ヶ崎という地名が「日雇い労働者の街」という意味を持つからである。日本にまたとない場所である釜ヶ崎の歴史を以下に紹介する。

-1950s

新今宮の北、現在の日本橋1丁目から5丁目までは、江戸時代より長町と呼ばれ、堺筋沿いに木賃宿(きちんやど:安宿の意。宿泊客が自炊し、燃料代だけを払うだけの宿であったことから由来する。大部屋で雑魚寝の粗末な宿であった)が建ち並び、一歩裏路地に入るとさらに条件の悪い安宿や粗末な民家が密集していた。大坂へ流入する人々の一時的な滞在地となっていた。
明治期に入って、コレラ・ペストが流行。人口密集地帯であり、衛生状態がよくなかったことから、長町の環境は問題視されていた。1898(明治31)年には大阪市で木賃宿の営業が禁止され、1904(明治37)年の第5回内国勧業博覧会(現在の万博のようなもの)で現在の新世界が開催予定地になったことから付近は一変した。
ここで、釜ヶ崎の地理に触れておく。当時の大阪市の南端は鉄道の線路(現在のJR大阪環状線)が境界となっていた。鉄道と紀州街道が交差するという偶然が今後の釜ヶ崎の命運を決めることとなる。今宮村でありながら線路を越えるとすぐに大阪市であり、紀州街道沿いという交通の便の良さから、大阪市で禁止された木賃宿が次々に釜ヶ崎にオープンすることになる。のどかな農村は木賃宿街として発展することとなる。
ちょうど大阪市と今宮村の境界にあり、今宮村だった交通の便もよかった今宮村釜ヶ崎に次々と木賃宿がオープンする。紀州街道の木賃宿街となった釜ヶ崎には労働者や生活者が流れ込んだ。しかし、木賃宿の環境は劣悪であった。当時、大阪府警察部保安課長であった中村三徳は釜ヶ崎の窮状を憂い、「なんとかならぬか」と自らの手で寄附金を集め、1912(明治45)年、大阪自彊館(じきょうかん)を設立した。それ以来、現在に渡り、釜ヶ崎の困窮者の支援を続けている。中村の名前を冠した「三徳寮」はあいりん総合センターの隣に今もある。
浪華名所獨案内
  提供:大阪市立中央図書館

1950s

戦後の混乱期
1945(昭和20)年の3月と8月の大阪大空襲により、大阪は焼け野原となった。釜ヶ崎には木賃宿が数軒しか残っていない状態であった。終戦後すぐに、釜ヶ崎には多くの戦災被害者が多く集まり、簡易宿所や粗末なバラックに住居を構えた。荷物かつぎ、靴磨き、露天商など、人々は戦後の混乱をなんとか乗り切ろうと懸命に生きた。戦後すぐの混乱が落ち着くと新たなビジネスチャンスや仕事を求めて多くの人が集まった。
撮影:三條場正博
 提供:西成情報アーカイブ

1960s

日本最大の日雇い労働市場へ
日本は高度経済成長期へ突入した。求人は絶えず全国から職を求めてたくさんの人々がやってきた。1970(昭和45)年の大阪万博の建設ラッシュもあり、人はあふれんばかりとなった。
仕事はあるものの、釜ヶ崎に暮らす人々の雇用は不安定だった。安い賃金、改善されない生活、先の見えない未来など、人々の不満はたまっていた。1961(昭和36)年にはじめての暴動が起こる。1963年に2回、1966年に4回、1967年に1回とその後も暴動は続いていく。大阪市・大阪府・大阪府警は釜ヶ崎と呼ばれていたエリアを線引きして「あいりん地区」と命名。暴動の鎮圧を図る。同時に、環境を改善しようと、労働、福祉、医療対策を基軸とする「あいりん対策」を、国、府、市、民間が一体となって実施するようになった。
撮影:上畑恵宣
 提供:西成情報アーカイブ

1970s

単身男性の街へ
60年代までは、男女比は半々で、釜ヶ崎には世帯を持った家族も多く、付近の小学校はたくさんの子どもであふれんばかりであったが、暴動の影響で家族世帯を地域外の公営住宅へと誘導する施策が進められた。1970年(昭和45)年に新今宮駅前に巨大な「あいりん総合センター」(現在は建て替えに向けて閉鎖中)が設置され、関西、ひいては日本の建設現場の労働力を下支えする一大拠点となった。こうして産業上のニーズと単身男性化を下支えした行政の対策が相まって釜ヶ崎の住民構成は大きく変化した。単身男性の割合が急増して、釜ヶ崎は住民の大多数が日雇い労働者で構成される町へと変容した。また、日雇い労働者のための雇用保険と健康保険が整備され、労働者は法的にも保護され、セーフティーネットが確立された。これが釜ヶ崎のさらなる発展の礎となる。
撮影:中島敏
 提供:西成情報アーカイブ

1980s

日雇い労働の聖地へ
好調な景気に加えて、労働条件も改善されたことから求人は増え続け、80年代後半はバブル期を迎えて鰻登りに上昇した。これに対応するために地域の7割ほどの簡易宿所が高層化し、個室化した。釜ヶ崎のハードが大きく変貌した時代であった。
撮影:ありむら潜

1990s

労働者を取り巻く厳しい環境
バブルが崩壊した。1991(平成2)年をピークに求人が大きく減少した。1泊500円からある宿泊料すらも払えないほどとなり、宿を出てホームレスにならざるを得ない人々が増えた。釜ヶ崎の日雇い労働者の多くは簡易宿所で生活していたため、日銭が入らなくなると即座に住居を失うリスクを抱えていた。住所不定の人々に対してする生活保護の適用が、健康を害しての生活保護施設への入所のみという体制であったため、失職したホームレスへの対処が機能しなかった。
提供:ありむら潜

2000s

福祉の町へ
ホームレス状態の人々に対する適切な社会保障を求めようと、2000年代以降は多くのNPOが生まれ、官民連携が本格化した。居住福祉の支援をはじめとするまちづくりの取り組みの成果もあり、釜ヶ崎には生活保護を受けてアパートで一人暮らしをする高齢の単身男性が増え続けた。こうして2000年代に入っての釜ヶ崎は「福祉の町」としての性格を新たに持つことになった。

2010s-

海外からの来訪者
長引く不景気や労働者の高齢化が原因で、簡易宿所は厳しい時期が続き、営業形態を変更せざるを得なかった。第1は、生活保護受給者を主な対象とした福祉的アパートへ。第2は外国人や国内旅行者の積極的な受け入れるホテルやゲストハウスへとシフトした。価格がリーズナブルなこと、関西空港からのアクセスのよさから外国人に人気を集めている。より部屋の広いホテルや、民泊も増加してきた。
NPOや社会運動の蓄積も日本一といってよく、視察などが絶えず、今も労働・福祉の聖地であり続けている。

監修・協力:西成情報アーカイブ

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