HISTORY

新今宮の歴史

新今宮、ここは多様性と包容力に溢れる街。1964年に駅名として登場した新今宮は、地名としてはまだまだ新参。古代からつづく土地の記憶が、文化や風景を育ててきた。古くも新しい、不思議な新今宮の古代から令和までの激動の歴史を紐解いていく。

日雇い労働者の街 釜ヶ崎の歴史はこちら

古代・中世

四天王寺と海辺の村

絵堂第四面の聖徳太子絵 提供:四天王寺

新今宮の歴史を掴むためには、東と西とで分けるとわかりやすい。
新今宮東部(現在の新世界と山王の大部分)は四天王寺の寺領であった。聖徳太子によって593年に建立されたと言われている。現在の国道25号線と松屋町筋の交差点「公園北口」付近にある合邦辻(がっぽうがつじ)では、聖徳太子と物部守屋が仏教を巡って討論したとも言い伝えられている。
『四天王寺縁起』によると、聖徳太子は四天王寺を建立するにあたり敬田院、施薬院、療病院、悲田院という四箇院を造った、敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は薬局・病院にあたり、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための社会福祉施設にあたる。この悲田院こそが、日本の社会福祉の始まりとも言われている。四天王寺は古くから、現在にいたるまで、多くの社会的弱者を支えてきた。

廣田神社のアカエイ

新今宮の北西にある今宮戎神社は600年頃、四天王寺の西方の守護として創建されたと言い伝えられている。今宮戎神社、廣田神社から今の萩之茶屋にかけては海岸に近く、漁村が点在した。朝廷に魚産物を奉納していた由緒がある。廣田神社にアカエイが神の遣いとして祀られていること、漁業の守り神である戎さまが今宮戎の祭神であること、海道、甲岸などという地名などから、付近が海辺であった事実が今にも窺える。

近世

紀州街道沿いの村

左:四天王寺浪華百景より
  右:今宮蛭子宮/浪花百景より
  提供:大阪市立中央図書館

江戸期に入り、大阪と堺や和歌山を結ぶ紀州街道が南北に通り、大阪の南口として賑わいをみせた。東には四天王寺、一心寺、新清水寺、西には廣田神社、今宮戎神社とたくさんの参拝客を集めた。
現在の新今宮の北、現在の日本橋1丁目から5丁目までは、江戸時代より長町と呼ばれ、堺筋沿いに木賃宿(きちんやど:安宿の意。宿泊客が自炊し、燃料代だけを払うだけの宿であったことから由来する。大部屋で雑魚寝の粗末な宿であった)が立ち並び、一歩裏路地に入るとさらに条件の悪い安宿や粗末な民家が密集していた。旅人から職を求める人まで、大坂へとやってくる人々の一時的な滞在地となっていた。

「能楽図絵」「弱法師
立命館大学ARC所蔵(arcUP0911)

河内国の長者の息子、俊徳丸の悲劇を描いた、能の演目『弱法師』文楽・歌舞伎の演目『摂州合邦辻』は、先述の合邦辻が舞台となっている。跡目争いに巻き込まれ、毒を盛られて失明した俊徳丸は、命からがら四天王寺に逃げ込み、そこで愛する者に救われるという物語である。1773年に初演され、現在も人気の演目として公演されている。

明治・大正

一大歓楽街へ

提供:新世界公認ホームページ

畑が広がっていたのどかな土地に、1889(明治22年)一大複合娯楽施設『今宮商業倶楽部』がオープンした。瀟洒な洋館の中にはビリヤード場、温泉、商品や最新技術の陳列、偕楽園という美しい庭園、さらに室外運動場や競馬場まで備えたものだった。1889(明治22年)の市町村制の実施により、合邦辻から東は東成郡天王寺村となった。西は西成郡今宮村となった。

1912年建設当時の通天閣
  提供:新世界公認ホームページ

これが契機となって1903(明治36)年の第5回内国勧業博覧会(現在の万国博覧会に近いもの)の会場予定地となって開発が急速に進んだ。博覧会の跡地の東半分は天王寺公園に、西半分は「新世界」となり、通天閣や遊園地のルナパークなど娯楽施設が作られた。1919(大正8)年に相撲興行のための大阪国技館がオープンし、一大歓楽街となった

中山太陽堂

新今宮北西部は、工場が集積し、現在建設中の星野リゾートOMO7のある新今宮駅北には中山太陽堂(現在の株式会社クラブコスメチックス)の本社工場があった。中山太陽堂は独創的な広告や、プラトン社という出版事業で最先端の文化を発信し、時代のパイオニアとなった。1912(明治45)年に初代通天閣に作られた天井が現在の通天閣に復刻されている。
新今宮の南西部、現在の萩之茶屋付近、通称釜ヶ崎は、日雇い労働者の街としてきわめて個性的な発展を見せることになる。それは、別ページ、釜ヶ崎の歴史を参考にしていただきたい。

昭和

栄枯盛衰

1955年(昭和30年)代前半のジャンジャン横丁
提供:新世界公認ホームページ

通天閣と飛田新地を結ぶ南陽通商店街は、多くの人が押し寄せた。客寄せのために三味線や太鼓が所狭しと鳴り響き大変な賑わいであった。「ジャンジャン横丁」と言われる所以はこの三味線の音に由来する。
1938(昭和13)年には大阪市営地下鉄動物園前駅が開通し、天王寺動物園や、大阪市立美術館も近く、大いなる賑わいを見せた。しかし、戦争が影を落とす。火事で損傷した通天閣は解体され金属として供与された。1945(昭和20)年3月と8月の大阪空襲で新今宮周辺は焼け野原となる。

1956年(昭和31年)再建中の通天閣
提供:新世界公認ホームページ

戦後の混乱期を乗り越え、1956(昭和31)年には地元住民が中心となって2代目通天閣が再建された。1964(昭和39)年には国鉄大阪環状線の新今宮駅が新設、1966(昭和41)年には南海新今宮駅が開業し、乗り換え駅として交通の要所となった。釜ヶ崎は高度経済成長期や大阪万博の建築特需により、日本最大の日雇労働市場となり、日本全国から仕事を求めて人々がやってきた。簡易宿所は高層化、密集化し、日本で類をみない人口密度の高いとなった。しかしながら、東京の一極集中化による大阪全体の低迷、梅田、難波などの隆盛、度重なる暴動などの影響で新今宮はかつての勢いを失っていく。

平成

世界の下町として

提供:ありむら潜

平成に入ってバブルは崩壊した。関西空港建設、阪神・淡路大震災の復興需要も状況を大きく好転するほどには至らず、不安定な環境にあった日雇い労働者たちは職を失い、ホームレスとなって新今宮周辺、市内の公園や河川敷に暮らし始めた。治安、衛生面の問題もあり、新今宮は近寄りがたい街となってしまった。起爆剤と期待された複合娯楽施設『フェスティバルゲート』も人気を集めたが10年後の2007(平成19)年に閉業し、受難の時代が続く。
新今宮の窮状をなんとかしようと民間が立ち上がり、多くの支援団体が生まれた。官民連携により、ホームレス問題、ゴミ問題などを一つ一つ丁寧に改善し、街は平静を取り戻す。2013(平成25)年からは新今宮のさらなる発展を目指し、西成特区構想がスタートし、ボトムアップのまちづくりが進んでいる。

様々な取り組みが実を結び、新今宮は再び脚光を浴び始めた。下町風情が愛されて、今でも多くの映画やドラマの舞台となっている。新世界では串カツ屋、土産物店、飲食店、大型商業施設などが続々オープンした。
太子、萩之茶屋などにあった日雇い労働者用の宿泊施設は、不景気や労働者の高齢化が原因で厳しい時期が続いたが、価格がリーズナブルなこと、関西空港からのアクセスのよさから外国人に人気を集め、多くの宿泊施設が外国人向けのホテルやゲストハウスに転換した。外国人労働者も多く暮らし、新今宮は多国籍な街として新たに賑わいを集めている。

令和

新しい新今宮へ

2019(令和元)年には、恵美須西に日本初の外国人就労トレーニング施設 YOLO BASEがオープンした。2022(令和4)年4月には星野リゾートOMO7 大阪新今宮がオープン予定、さらにはあいりん総合センターの半世紀ぶりの建て替えも予定されている。新今宮は大きく変わろうとしている。現在は、コロナ禍により苦境を強いられているが、様々な苦難を乗り越えてきたこの地だからこそ、またたくましく新たな時代に適応することだろう。
新今宮の通史を読むと、以下の3つのことが導き出される。
第1に、古代より続く弱者救済の四天王寺の慈悲、行政機関による福祉施策、民間団体の手による支援といった数多くのやさしさが、この地に注ぎ込まれてきた。
第2に、近世より木賃宿として様々な人を迎え入れてきたこの地の包容力は、簡易宿所・ホテル・ゲストハウスへと移り変わった。
最後に、紀州街道沿いという交通の便のよさは、4つの鉄道会社がアクセスする至極交通の便がよい街となった。
古代より続く土地の記憶が脈々と現代に受け継がれている。
新今宮はかつて今宮村としてひとつであったように、1000年の時を越え、新今宮ワンダーランドとしてまた一つになろうとしている。
監修・協力:西成情報アーカイブ
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