FEATURED CULTURE IN SHIN-IMAMIYA

CULTURE

山王・金塚・飛田の龍神

寺社仏閣・史跡

地域を守った龍神さん

新今宮の東側、西成区山王から阿倍野区金塚(現在の旭町各丁目あたり)にかけてかつては五つ、現在は山王・金塚・飛田にかけて四つの龍神の祠がある。このあたりは上町台地の崖沿いに位置しているため、台地から水が下り、古来より良水の湧く井戸や水脈が多くあった。それを守るために水の神様である龍神様が祀られた。

また現在の金塚小学校あたりにはかつて金塚池*という大きな池があった。そこには大蛇がいるといわれ、近隣住民からは「池の主」として崇められていた。この蛇が龍神とされている祠もある**。

注釈* 稲谷池とも言われていた。
注釈** 本来、龍の神様と蛇の神様は別物である。

近くに神社がなかったこともあって、龍神は地区の人々に身近な神様として敬われた。「龍神さんの結界のおかげで大きな災いがない」と言われ、第二次大戦の空襲でも周囲は被害を受けたがここだけは奇跡的にそのままであった。その霊験あらたかな龍神を様々な逸話とともに以下に紹介する。

天龍大神

天龍大神は西成区山王2丁目に鎮座されている。鳥居の奥に社がある。

1923(大正12)年6月15日の夜、近くに住む畑傳右衛門(はたでんえもん)が龍神の昇天する夢を見た。当時、天王寺第5尋常小学校(現在の金塚小学校)の建設が進められていた。金塚を埋め立てての工事であった。龍神はその池の主であった。龍神のお告げを受け取った傳右衛門は早速、祠の建立に取り掛かる。関東大震災や大正天皇崩御、その後の世界恐慌の影響で遅れてしまったものの、1936年(昭和11年)に無事、天龍大神は建立された。

1970年代後半から始まる阿倍野再開発の際に祠を撤去する話が持ち上がったが、祠から2頭の大蛇が出てきてたち消えになったという。しばらく放置されるままであったが、阿倍野へ買い物へ行く途中に道に迷ってしまった僧侶がその荒れ果てた姿を見かけて、放ってはおけないと社の修繕を進めた。現在は様々な人々によって守られている。

白龍大神

元々は現在の金塚幼稚園の近くにあった。阿倍野再開発により移転を余儀なくされ、祠は伏見稲荷神社に一度お納めされた。しかし、地域の守り神をまた呼び戻したいという思いから飛田新地料理組合が白龍を引き取り、現在は飛田会館の前庭に鎮座されている。

「龍神さんの存在をより地域の人に感じてもらいたい」と飛田新地料理組合が付近に龍神の案内板や白龍の立派な鏝絵(こてえ)を制作した。大分の鏝絵師である仁五(じんご)氏が「100年持つ白龍大明神を作りましょう」と制作に協力した。漆喰と鏝を用いて美しく力強い龍神が作成されている。

黒龍大神

山王地区の急な坂を上がったところに黒龍さんは鎮座されている。大阪公立大学付属病院の西、ちょうどここが上町台地の崖となっている。

明治時代、ここには黒龍長者という大金持ちが住んでいた。「阿倍野水」という良質の水が湧く水源があり、それを飲料水として販売していた。それをお守りくださるようにと黒龍の祠を建てたのが由緒である。

黒龍大神の隣のマンションを建築する際に境内の一部を道路にしようとしたところ、その業者が破産したそうである。

今でも毎月18日に月例祭が行われ地域の安寧が祈願されている。ちょうど祈祷の時に雨が止み、祈祷が終わると雨がまた降り始めるといったことがよく起こるそうである。

金龍大神

金龍大神は現在の金塚小学校の東、あべのシャルム付近に鎮座されていたが、阿倍野再開発にて収用地となり信貴山朝護孫子寺にお納めされた。

先の天王寺第5尋常小学校の工事の際に石垣が崩れ3人の作業員が死亡し、学校長、警防団長、その他関係者が次々に急死した。そこで、金龍の祠を建立したところ平穏安寧を取り戻したとのことである。

銀龍大神

銀龍大神はあべのビアレの東側に鎮座されている。元々は金塚の小山の上に祠があったが天王寺駅の開発のための用土とされて崩されて小山の麓に遷座された。その際粗相があり関係者の足に走行中のトラックのロープが絡みつき大怪我を負ったそうである。

銀龍のある土地が民間に売られるということで2回目の遷座があった。その後、1970年代後半から始まった阿倍野再開発のために3回目の遷座があった。近くでおかき店を営む高濱氏の倉庫のすぐ近くに龍神が移されたので、高濱氏はその後世話を引き受けることとなる。

再開発の都合で一度仮移転をする。これが4回目の遷座となる。そして、5回目の遷座で現在の場所に到る。その際に白い蛇が祠から現れたところをその目で見たと高濱氏は語る。

山王・金塚・飛田地区はこのような強い力を持った龍神によって今も守られている。空襲でも焼け残った古き街並みを散策し、龍神さんを拝んでみてはいかがだろう。

※本原稿は地元の方々へのヒアリングや、手にできる書物から再構成した文章となっている。事実関係の確認について今後の論証が進み、これをきっかけにこの地域の歴史がさらに掘り下げられることを期待する。

監修・協力:西成情報アーカイブ

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