FEATURE

2022.02.18

新今宮の太子交差点の南側はかつて多くの労働者が集まった簡易宿所街。

高度経済成長期には求人は絶えず、全国から職を求めてたくさんの人々がやってきた。1989年には210軒の簡易宿所が稼働し、1991年には1日16,623人が新今宮の簡易宿所に宿泊するというピークを迎えた。その後バブル崩壊で求人が激減し、宿泊代を払えなくなった労働者が宿を出て路上生活をせざるを得ないまでになった。

簡易宿所は生き残るために変わらざるを得なかった。基本的に3つの方向がある。第1は観光客向けの宿へ。第2に高齢化した当時の労働者・生活保護受給者などを対象にした福祉アパートへ。第3は今まで通りの労働者向けの宿を続けるところ。

今回はこの街で2軒の簡易宿所と1軒の生活保護受給者専用の福祉アパート「サポーティブハウス」を運営し、町会長としてもまちづくりを進めてきた西口宗宏さん、西成労働福祉センターの元職員で、現在はまちづくり会社に所属しているありむら潜さんにお話を聞いた。

二十歳でホテル経営をまかされる。売りは静かさ

西口宗宏(にしぐち・むねひろ)さん

始めたのは20歳の時やから1980年、まだ大学生の頃。親父からお前が後継げって言われた。最初は親父とお袋も一緒におったがもう2ヶ月くらいで、もう任せたって言われた。

掃除もフロントも全部やった。客同士がケンカになったら割って入って、すぐやめさせてたから、親がこいつなら大丈夫って思ったんやろうね。そやから20歳くらいから24歳までやったかな一応は。

最初の頃の「ホテルWEST」は小さい部屋で設備もエレベーターもない。今でもないけど(笑) 売りは静かなことだけやった。静かでないと困る。

静か、大切ですね

そう。みんな朝早く動いてはる。夜中は静かに寝たいって。その環境をつくるのが俺の仕事。その当時ほとんどは労働者だった。労働者は40、50代が多かった。部屋で酒飲んだり、ぐだぐだしたり。

ま、ちょっと見に行こか。

数々の思い出が残るホテルWEST

これが最初に始めた宿、ウエストや。

「この隣のところ。ここに住んどったんよ」と西口さん

当時の労働者には明石大橋とか瀬戸大橋の建設の仕事があって、ああいうのの一番上のボルトを締める仕事がすっごいお金になるの。1日行くと4万とか6万円の世界。

あとね煙突掃除の仕事。工業地帯の高い煙突あるやんか100mとかの。それやってる人もいて、いつも差し入れで食べ物をくれるねんけどよいのくれるねん。寿司買うてきたからとかいうて。

俺が幼稚園の頃は、よく飯にも連れてってもらったね。

ホテルWESTの客室

部屋は3畳。昔は部屋が畳で布団やった。このホテルは畳の部屋を一つも残さなかった。だいぶ変えたけどテレビは最初から付いていたし、エアコンも付いていた。エアコン・テレビ付きっていうのが始まったのは1980年頃。

本当にそのころね景気が良くて1泊で2400円とかで今より高い!今は1300円!

今のお客さんはどういう人が多いですか?

ここは今でもやっぱり労働者が多い。でも最近はいろいろで若い人もいて、ここ泊まって飲食の仕事に行ってたり。飲食関係はミナミに集まっててここから近いから。


俺、ここの屋上のプレハブに住みながら勤めててな。でも、大学に行くから人を雇わないと無理やなって。それでたまにもう一軒の方の「ホテルラッキー」の人がフロントの助っ人に入ってくれた。でも、大学には6年間通ってもうたけどな(笑) 24歳ぐらいまでそんな感じで大学生して、そこから27歳までサラリーマンして。戻ってきてここの経営に復帰して、結婚した。屋上のプレハブから下の部屋に住むようになった。

結構儲かっててんけどな、親父はくれへんから。金を俺に渡したらハワイ行って帰ってけえへんやろって。その通りやなって。学校は行かへんけど波乗りは行ってたから。

それで結婚して子どもできて32歳くらいまでこっちにおった。

労働者と観光客が宿泊するホテルラッキー

ラッキーはいつからやってるんですか?

ええとねラッキーは30年くらい前。さっきのWESTもここもシャワーは24時間OK。夜の仕事の人とかもいるし、朝早い人もいるから。

今は建物の下の階はインバウンドで上の方は労働者の人たちが使ってる。コロナが落ち着いて日本の観光客はちょっと動き出したけどまたまだやばいな。

昔はな、簡易宿所の宿泊証明とかを身分証明代わりに仕事しとったけど労働者手帳作るのに住民票無いとあかんということになって。みんな困るやん。住民票なんか持っていないから。それでその時に組合の理事長が、あんたが一番信用があるから地区代表で役所に話に行けと。

その時どんなお話をされたんですか

役所はね、「簡易宿所で住民票取れるようにしていいよ。でも1年間ずっとおる人に限ります」って。それはあかん。日雇い労働者で1年いれる人なんてどんだけの少数や思うとん。日本全国で使うためにここに集めてきたんちゃうんか。で、どうしたかいうと1日でもいいやんと。そうしないとまた路上生活者が増えるぞって。

だから仕事でどっか行っても、帰ってきたらここに泊まるよって。宿っていう形式でも住民票取れるようにした。そこが一番の落とし所。最初1年とか言ってたけど日雇いの仕事なんか1日勝負やんか。1日から認めてもらって。「変な簡易宿所の経営者おる」って周りから言われてたな。それでその後に町会長になってん。

街の高齢化・福祉の街へ

1990年代に入るとバブルが崩壊した。まだバブル弾けるちょっと前、もうねバブル弾ける半年前からちょっとおかしかった。

景気が良くなるのは一番遅くて、景気が悪くなるのが一番早い。この街の景気を見るとだいたいわかる、おもしろい。いや、おもろないよ。

サポーティブハウスおはな

今から行くサポーティブハウスの「おはな」ってところ元々は「ホテル・サン」っていう名前やった。

高齢化によって、街には仕事に就けない労働者が路上生活者になって溢れてきた。でもうちは常連さんで102室のうち90何部屋詰まっとって。相変わらず静かにしてしまうから評判もまあよかったんで。

それでようやっているときにありむらさんが来て。ガラガラって引き戸開けて、ちょうど親父がおって。3時くらいに来たんやありむらさん。

──「ガラガラでしょ? ここ、福祉マンションにしませんか」って。

最初はなんて失礼なこというんやこの人って。ほんならうちの親父があれはこの街のことよう考えてる男や、何も考えずお前に話に来たわけがない。一回話聞きに行けって。俺も生活保護の知識も知らんし、今は伴走型支援なんてのもあるけど設備面とかそんなの聞いたこともない。まちづくりもわかれへんしなんもわからん。そこから集まるようになって会議を4時間くらい平気ですんねやんか。帰ったらふらふらやって。

ありむらさんが来て3か月後、部屋数を減らして住民のための談話室に改装して、開けてすぐに96室埋まった。

名前も「おはな」に変えた。ハワイ語で「家族」って意味で、地域で孤立せずに一緒に生活できる家になればと名付けたんや。


その当時のホテル・サンのお客さんがいま生活保護でおはなにいて、その方は職人さんで一回もお金遅れたことなかった。その人ですら保護になった。

要するにバブルが弾けたからじゃなくて、構造的に1970年に向けて60年代に日本中から単身の男ばっかり集めて労働力にした。それを使い捨てのようにしてしまって何の補助も無くしたから生活できなくなった。そりゃそうよな、肉体労働やから。そうなったときに路上生活をせざるをえなくなった。

俺は小さい頃から労働者のお金で学校通わせてもらって、大学も特には勉強していないけどな。そんな生活させてくれたのは労働者や。おはなになって何年後くらいやろ。でも3年で借金がなくなった。全部元労働者のお金で。それがあったので裏切られへん。裏切ったら人間じゃないくらいに思っているわけ。

おはなにはどんなサービスがあるのでしょうか

最初はもう役所に申請行くのについて行くねん。自分で説明するの下手な人とか手続き嫌いな人が多いからミスマッチ起こす。あと今やったらワクチン接種とかな。今うちはインフルエンザも無事に終わった。お医者さんが毎年来てくれるねん。
あとはステップアップで考えてる。

ステップアップ?

次の暮らしのこと。ステップアップするにはどこに行っても電気代とかいろいろな公共料金を払わなあかんってことを練習して出てもらおうと思って。

部屋ごとの電気メーター

わざわざメーターつけたのもそう。そしたらこんなに料金がかかったんかってわかる。電気代は使用量によって個々で違う。簡易宿所だったら電気代とか払わへんがな。

「これはわかくさ保育園・こどもの里の子ども達が敬老の日に書いてくれた絵」談話室にて

1階の談話室では水曜日モーニング喫茶やってる。ゆで卵とコーヒーを出してる。毎日やったら周りの喫茶店から営業妨害って言われるから水曜だけ。

あとクリスマスやったり、年越し蕎麦もやってる。今はコロナだから各部屋に持って行って食べてくれって。

ここのスタッフはもう数十年ここで働いてたり、このあたりの出身で、ここの空気感をわかってくれるからありがたい。社会福祉士の資格とかは必要無いよ。習ったことを言うんじゃなくて、空気感が分かってると酔っ払い相手もできるし、そういうのがみんな落ち着ける。

昔からここに馴染みのある人が働いている

そうそうそう。他のところはみんな外から来ているけど俺らのところがこだわっているだけ。だから業者もできるだけ近隣の業者でね。

簡易宿所業界の空気も変わってきた

労働者の人もこれから仕事が減っていったらどうしようとみんなが不安をいっぱい抱えてる。その時にみんな「町会の人も知っているし簡宿業界のことも知っている、支援団体のことも知っているのはお前だけや」と俺に言うわけ。

それでやっぱり色々な人と話し合いできるテーブルがいるよねってなって。だから萩之茶屋まちづくり拡大会議という、簡宿組合、福祉施設、支援団体、教育機関、商店会の組合が一緒になった組織を作って。そこからどういう方向で動いていくか、どうしていくことが地域のプラスになるか。その人らが力になってくれるか。めっちゃ考えた。そんなんでめっちゃ時間がかかるわけ。10年間そういう感じで動いてきた。

政治家にも行政にも言うねんけど、俺はそこまで生きるのに困ってない。でもほんまに困っている人たちがいる。その人たちが必要とする政治をな、そこを見てちゃんと政策とかルールをつくるなり条例をつくるなり、国会が法律をつくるなりそこが一番大事やって。ここで苦しんでいる人たちは選択肢がない。そんな人のために政治や地域が必要やねん。金だけ必要ちゃう。その気持ちを持った町会長であり、その気持ちを持った理事でないとあかんと思う。

そんなら簡易宿所業界の空気も変わってきた。いきなりインバウンド始めたら労働者締め出すって騒ぎが出てくるやん。でもここで騒がへんかった。この街を利用する人そのものが減ってこの街に元気なくなったら、元からいた労働者すら支えることのできひん街になってしまうから。

この筋道と気持ちを伝えておかないと、労働者とか生活保護の人たちも離れてしまうし町会も商店街も離れてしまう。そこを大事にして、うまいこと地域で生きていけるように。地域を盛り立てていきましょうって。

なんぼ華やいでも忘れたらあかんで。その受け皿は絶対忘れたらあかん。
それが元にあるから観光インバウンドがある。

その気持ちがなかったら無理。この街で浮いてしまうことになる。
活性の陰にはここが大事やねんて。それは絶対忘れたらあかんよって。
後輩たちにも俺は伝えよう思ってる。

 

宿が変わると街が変わる、街が変わると宿が変わる。

ありむら潜(ありむら・せん)さん

まずはありむらさんの経歴を教えてください

西成労働福祉センターの元職員で漫画家です。労働福祉センターには1975年に就職しました。2012年に60歳で定年退職して、そこから5年間再雇用で働いていました。2017年からは萩之茶屋地域周辺まちづくり合同会社に所属しています。

まちづくり合同会社は地域住民が街づくりの中で作った会社です。その中に「まちナビ事業部」という一人事業部を持ち込みまして、スタディツアーの実施や地域紙の発行を主にやっています。あとは街のいろんな会議への参加も一つの仕事みたいになってますね。

1999年から「釜ヶ崎のまち再生フォーラム」というまちづくり団体の事務局長もやっていて、その仕事ももう22年くらいになります。そういうような経歴で来ています。

簡易宿所の考え方を転換

バブルの崩壊・暗黒の90年代で、特に後半になるともう路上生活者の数が激増してね。1998年が社会のどん底なんですよ。大きな会社、金融機関がどんどん倒産していって、路上生活者の数は98年に大阪市内で8,660人と記録されています。

で、これは何とかしなきゃいけないということで、99年からさまざまな動きが出てくるんです。釜ヶ崎支援機構というNPOができたのも99年だし、我々の釜ヶ崎のまち再生フォーラムが始まったのも99年。

このままいくと地域崩壊するという非常に危機的な状況でした。路上生活者の数は激増するし、簡易宿所も倒産するだろうし、当時は本当に大変なことになるという危機感がありましたよ。 ただその前に釜ヶ崎居住問題懇談会という勉強会を、97年に立ち上げておりましてね。そこで「居住のはしご論」っていうのを打ち出したんですよ。これが画期的でした。

詳しく教えてください

元々アーンステインという有名な都市計画家の「住民参加のはしご」というものがあって色々な住民参加の段階を説明しています。それに関連して我々は居住のはしご論を考えました。地域にある居住資源を全部階段状に並べ直して、とにかくあらゆる居住資源を使って野宿から遠ざかろう、脱出しようというメッセージなんです。

考え方としては、地域内にある居住資源のシェルターや、相部屋の救護施設、簡易宿所などの役割を見直して、居住資源として活用していくものです。まずは野宿から脱出しよう、できれば一番遠いアパートに移っていこう、と。そのための支援として、居住のステップアップを図るための地域全体の設計図をアピールしたんです。

居住のはしご論

救護施設と厚生施設の二つの施設の違いは分かりますか? 二つとも施設なんですけど。もう一度、労働者の列に戻って働けるようになる人たちが入るのが厚生施設なんです。高齢化などでもう働けるようにはならないという人たちが入るのが救護施設なんです。

それぞれ役割があるということなんですよ。それぞれに合致した人達をサポートしていこうと。ただ、当時は施設収容主義というのがあって、何でもかんでも施設に収容するという発想でしたから、それは間違いですよということを示すために、居住のはしご論では頂上にアパートを置いたわけです。

だから一番上にアパートがあるんですね

そうそう。ただ、アパートにはケアがないわけだから、逆に孤立が深まっていく人たちもいるし、やっぱり階段の下の方の辺りにあるサポートやケアをアパートにもつけなきゃという発想です。

居住のはしご論っていうのは地域にあるさまざまな居住資源を総動員する考え方です。居住資源を総動員して野宿を脱出して階段を上がろうよ、ステップアップのために居住を安定させて行きましょうよという考え方でした。

地域内にあるサポーティブハウス コスモの談話室にて・森信雄七段

地域とステップアップ

2000年の1月頃になると釜ヶ崎のまち再生フォーラムで簡易宿所の活用の仕方アイデアワークショップを開催しました。そこでアイデアが6つぐらい出て、今の外国人旅行者向けゲストハウス化っていうのもその時出てきました。

6つのアイデアは、ホテルとしての充実化、緊急避難シェルター、簡宿形態での生活保護、福祉アパート化、介護保険のデイケア施設化、グループホーム化です。その中にあるグループホーム化と福祉アパート化が参加者から多くの支持を集めました。

それが後のサポーティブハウスになると

最初は福祉アパートと呼んでいたんですけど、東京・山谷の人たちと一緒にニューヨークのホームレス支援策を視察にいったんです。ホテルを使った居住のステップアップを図る事例があるということで。

なんと一般のシティホテルを買い上げたり借り上げたりして。そのための資金は全部銀行が出すんですよ。それを使ってホームレス状態の人が路上からステップアップして、そこに職業訓練や仕事も付けたりなんかしてね。そういう手法を使ってたのがわかったんですよ。

その時ニューヨークでは「サポーティブハウジング」って呼ばれていました。ちゃんとした国際用語でね。だから我々もサポーティブハウジングにしようかなと思ったけど、一軒一軒を呼ぶ時にちょっと日本語的に違うような気もしたので、サポーティブハウスと呼ぶことにしたんです。

当時の福祉アパートストリート

ニューヨークにも同じような取組みがあったんですね

このまちでも、50mばかりの同じストリートにすでに2軒の福祉アパートができていたので3軒もそろえば、自力のまちづくりを「見える化」できると思って「ホテル・サン」の経営者だった西口さん親子の所にもアポをとって話しにいきました。

西口宗宏さんはもともとサーファーなので、アロハシャツみたいなのを着て、むちゃくちゃ若く見えましたね。共感を与えたと自分では思ったんですが、あとで本人に聞くと、「何のこっちゃ意味も言葉もわからんかったわ。経営はうまくいってるのに、失礼なやっちゃと思ったわ」と言われました(笑)

今でも飲む席ではよくこの話が出ます。幸いにも、第1回フォーラムに参加してくれていた西口さんのお父さんが「あいつの言うことは何かあるから、話をよう聞いたほうがええで」とサポートしてくれたようです。展開は早くてその年(2000年)のうちにサポーティブハウス「おはな」に転換されました。西口さんは行動力のある人で、3年後にはもうその区域の第6町会長になりました。頼もしくて、おもろい人材が合流してきて、こんなふうにいっぱい人が集まったんです。

我々はとにかく簡易宿所を使うことについては本当に頭をものすごく切り替えたんですよ。簡易宿所を使ったもっとレベルの高い在宅型のシェルターを作れるんだと。で、簡易宿所組合の人たちも自分たちの運命はまちと共にあるということ、地域貢献が必要なんだということ、経営はまちと共にあるんだということに共感してくれました。

そういう発想の転換をたらした意味でも、居住のはしご論は大きかったです。

サポーティブハウスの定義と意義

サポーティブハウスの定義としては「通過型住居」ということが重要です。詳しく言うと、日雇い労働者向けの簡易宿所を改善した生活支援付き高齢者用共同住宅のことで、保証金も保証人も不要という特徴があります。この仕組みで野宿から即座に住居を手に入れ、それを基盤に生活保護申請や求職活動が可能になります。

意義で言うと、一つ目はこれによって野宿生活に陥っていた人々、および危うくそうなるところだった人々、そのほとんどが高齢者でしたが、約1,000人規模で救い上げたこと。その後の入居者を含めると、数千人になります。

二つ目は、コロナ禍に大阪府が安い宿一覧みたいなのを公表をした際に、西成の簡易宿所が多数入っていてネットカフェ難民の受け皿になった話があります。「新型コロナ住まいとくらし緊急サポートプロジェクトOSAKA」では、一時的な住まいとして簡易宿所が部屋を提供されていました。これは緊急対応が求められている中ですごく有効なカードでした。

三つ目は、そこに今あるものを利活用する「リノベーション」という手法の走りとなったこと、かな。その頃そういう発想なかったもん。まあ釜ヶ崎は何もなかったから、そこにあるものを活用するしかなかったからやったんだけど。

リノベーションの先駆者だったんですね

政策っていうのは、とにかく新しく作るもんだみたいな単純な発想だったからね。そこにあるものを活用して何とかしてその階段を上がらなくちゃという発想は後で考えたら理にかなっていることがとても多かったですね。簡易宿所の活用の仕方というのが大きく変わって、ハウジング資源なんだっていうのが理解されるようになりました。

2008年リーマンショック後、派遣切りの失業者がでてきたときには簡易宿所を活用して若い人たちを支援する体制が組まれました。それをチャレンジネットと当時は言ってましたけど、その時もまずは住居を確保して、仕事の支援をしていくというようなパターンが出てきたんです。その意義は大きかったと思いますよ。これからもいろいろ何かにつけて簡易宿所が使われると思います。

宿の街、旅人の街

釜ヶ崎の100年のイラスト(絵:ありむら潜)

いずれにしてもこの地域のことは、1960年からの60年間だけの、釜ヶ崎という日雇い労働者が集中的に住んでいる時期だけ取り出して考えるんじゃなくて、宿の街として成立した1900年代初頭からの120年間のスパンの中で見ていく方がいいと思うんです。

これから先の街の変化についてもそういうスパンで見る方が有効だと思います。やっぱり宿がこの街のいろんな変化の中心にあったから。もちろん、日雇い労働者のいろんな生活改善で言えば、それは労働運動が歴史を作っていったんだけど、120年のスパンで見ればその下の基盤は宿ですね。

宿でできた街なんですね

宿が変わると街が変わる、街が変わると宿が変わる。

その事例はですね・・・
苦しかった2000年前後に街に路上生活者が急増したら、宿がその受け皿としてアパートに転換したこととか。それに2010年代のインバウンドラッシュで宿がゲストハウス化、民泊アパート化。そしたら街がエスニック地帯化したことなどが最近ではあります。

そもそも新今宮の北、現在の日本橋の辺りには、江戸時代から明治後半までたくさんの木賃宿*がありました。それが1897年、大阪市内は木賃宿営業が禁止となったんです。コレラが発生したりと、衛生面で問題があったことが理由とされています。

当時の大阪市の南端は鉄道の線路(現在のJR大阪環状線)が境界となっていました。今宮村でありながら線路を越えるとすぐに大阪市であり、紀州街道沿いという交通の便の良さから、大阪市で禁止された木賃宿が次々に釜ヶ崎にオープンすることになりました。

宿だらけだったこと自体が流動性の高い働き方をする「日雇い労働者の街」を成立させたんです。

*木賃宿(きちんやど):安宿の意。宿泊客が自炊し、燃料代だけを払う宿であったことから由来する。大部屋で雑魚寝の粗末な宿であった)

旅人の街だから面白いですよ。

世界中のいろんなものが持ち込まれるし、人生の旅をしてくる人たちが集まってくるし、
日本国内からもいろんな物語を背負ってやってくるわけですから。

面白い。この一言に尽きます。

 

新今宮の福祉アパート

サポーティブハウス

サポーティブハウスは、生活保護受給者専用の福祉住宅施設。労働者自身の高齢化などにより仕事を失い、野宿生活を余儀なくされるケースが増えてきた。その問題の解決をめざし、支援スタッフにより運営されている。新今宮エリアでは現在8件のサポーティブハウスがあり、その入居者層は高齢者をメインとし、40~80代と年齢は様々。心身的な障がいを持っている方を対象としている施設もある。

 

監修・協力:西成情報アーカイブ