FEATURE

2022.03.08

新今宮駅の北東に位置する新世界。しかし、新世界という地名は地図になく大阪市浪速区恵美須東1〜3丁目あたりの歓楽街を意味する。この不思議な名前を持つ街がどのように生まれ、どのように変わっていったのか。地元の人の話を元に検証していきたい。まずは新世界一、新世界の歴史に詳しいと言われている上杉和巧さんにお話を伺った。上杉さんは生まれも育ちも新世界。代々、酒店と立ち飲み屋を切り盛りしている。

まずは新世界史のお勉強

まずは新世界がどのようにして誕生したか教えてください。

明治時代の大阪は難波ぐらいまでが街やった。ここは今宮村。このあたりはネギ畑やってんね。で、街が大きくなるにつれて娯楽っていうものが必要になってくるんやね、今でもそうやけど大規模な娯楽施設は郊外にできるね。

万博公園とかまさにそうですね。

そうそう。で、今宮商業倶楽部というのが1889(明治22)年にこのあたりにできた。

今宮商業倶楽部 (写真提供:新世界てんこもり倶楽部)

今でいう遊園地みたいなもの。5階建ての展望台があって、温泉があって、レストランがあって、運動場や競馬場もあった。あと当時は珍しかったビリヤードや、蒸気機関の展示があった。また、すぐ近くの日本橋にも「眺望閣」という5階建の建物があった。結局、高いところに上るというのが一つの娯楽やったみたいやね。

第5回内国勧業博覧会

第5回内国勧業博覧会 (写真提供:新世界てんこもり倶楽部)

今の新世界付近が内国勧業博覧会、今でいう万博の候補地のような感じになったんやね。国を挙げた大事業で候補地を巡って、東京でやるか、大阪でやるか、すごくもめた。で、土居通夫さんという大阪商工会議所の会頭で、関西のどの企業にも役員として名前があるようなすごい人で、その土居さんが大阪に持ってきた。大阪でもいくつか候補地があって、ここがいちばん発展の可能性があるということで選ばれた。

ほんで、今宮商業倶楽部を買い取って、1903(明治36)年、第5回内国勧業博覧会が開催された。今までのは物品を集めて振興するだけやったけど、第5回は「遊び」を多く取り入れて余興やアトラクションがあった。初めての外国のパビリオンを建てたりね。

茶臼山池にあったウォーターシュート (写真提供:新世界てんこもり倶楽部)

日本初のメリーゴーランドとか、ウォーターシュート 、今でいう急流滑りが茶臼山にあった。レールがあって、それの上を下りてくるだけやから、めっちゃ怖かったとおもう。一番人気があったのは冷蔵庫。当時はそんなんなかったからね。

内国勧業博覧会の夜間イルミネーション (写真提供:新世界てんこもり倶楽部)

あとね、当時、電気も満足にない時代に日本初の大規模なイルミネーションがあってんね。そこに、木造高さ45mの「大林高塔」という大林組が作った高い塔があって、当時高い建物のない大阪平野に夜これが浮かび上がって見えていたらしく、すごいインパクトやったろうね。この塔が通天閣の原型やね。

内国勧業博覧会は5ヶ月で約450万人が来て、明治天皇も来訪されたりと、すごい話題ですごい衝撃やったらしい。

その後、日露戦争になったときに、ここは、捕虜収容所と病院になった。戦争が終わってから、大阪市に払い下げられてここが天王寺公園になった。1909(明治42)年に、東側半分が天王寺公園に、西側が新世界になった。大阪土地建物株式会社という民間企業が新世界の開発を担当した。社長は土居通夫さん。「新世界」という名前の他に「新巴里」という候補もあった。ぼくは博覧会の敷地の真ん中に「世界が辻」というメインストリートがあって、それに由来してるんちゃうかなあって思ってる。

「世界が辻」いい名前ですね

ルナパークと通天閣

ルナパークのエントランス (写真提供:新世界てんこもり倶楽部)

新世界の開発ということで、ルナパークという遊園地ができたんやね。ルナパークのキャッチフレーズは「五銭出せば夢の国」。新世界は博覧会が終わった後も、博覧会が続くようにという思いがあった。中には遊園地とか夢の国が広がってる。ルナパークのチケット係はターバンを巻いたインド人だったり、エジプト館があったりと、世界旅行をテーマとしてた。

「世界」というテーマがずっとありますね

初代通天閣 (写真提供:新世界てんこもり倶楽部)

同時期に、通天閣も建設された。凱旋門の上にエッフェル塔があるという思い切った作りやった。

初代通天閣 (写真提供:新世界てんこもり倶楽部)

通天閣の両サイドには大きな劇場が3つずつあった。通天閣をコの字形に囲むように劇場があった。北の方はテーマパークの前後で食事やショッピングを楽しむ場所やった。今のテーマパークでもそういうのたくさんあるね。元々は家族連れがくる場所やったんやね。

なるほど。それで北側は飲食店の老舗が多いんですね。

それで、1923(大正12)年にルナパークは閉館してしまった。およそ、12年。もともとのスタートでつまづいたんやね、さあ、今からやというときに、明治天皇が危篤になって、遊ぶどころやなかったらしい。あと、他に千日前に楽天地っていうテーマパークができたりといった環境の変化や、大阪人が飽きっぽいというのもあるやろね。

遊びだらけの新世界

昭和初期の新世界 (写真提供:大阪市立大学都市研究プラザ)

その後、新世界は劇場の街になった。新世界には映画館や劇場などが10軒以上あった。新世界単体でものを考える人が多いけど、近くに天王寺公園、天王寺動物園もあるから、そことの関連も含めて考えてくれた方がいいかな。

大阪国技館(写真提供:新世界てんこもり倶楽部)

それから大阪国技館があったんよ。ここで相撲をやってたんやね。空襲で焼かれてそのまま閉館してしまうけど、今、スパワールドの北側に記念碑が建ってるね。

当時の新世界の遊び方はね、奈良とか和歌山から家族連れで来て、天王寺から歩いてきて、天王寺公園やその中にあった野外音楽堂、動物園、新世界で映画を見て、てっちり食べて帰るみたいな。子ども遊ばせてお父さんが飲んでるっていうのあったけどね(笑)。あとは難波から日本橋の電気街を冷やかして、新世界で遊んで、飛田新地行ったりという人も多かった。

吉野の人が木材売ってたくさんお金が入ったからいうて、2ヶ月ぐらい滞在してずっと遊んでるとか、そんな人もおったな。天王寺駅周辺は今でこそすごいけど、当時は新世界の方が勝ってたんよ。人を踏んで歩けるぐらい、本当に家族連れでたくさんの人が新世界に遊びに来てた。

いい時代ですね

転機になったのは、1960年代から始まった西成の暴動。だいたい通天閣がテレビで映されるねんね。まあ、そうじゃなくて難波とかいろんなところで事件が起こっても通天閣が映されるしね。そしたら、新世界は怖いところやってなるやん。映画館はガラガラになって。でも、実際に通天閣あたりは何も起きてなかった。おっちゃんたちも自分たちの遊ぶ場所は守っておこうとしたんちゃうかな。

もう1つは、1970年の大阪万博の時、あの頃は全国から大阪発展のために職人さんが必要だったので釜ヶ崎にやってきた。新世界も近かったから、おっちゃんらもよう飲んでくれたし遊んでたなあ。まあ、客層が変わってんね。

一生懸命遊ぶ街

大阪市電(路面電車)がなくなったり、イメージが悪くなったりで、新世界は衰退していく。映画館自体も経営が苦しくなっていって、パチンコ屋になって、それが今は串カツの街になった。でも、変わらないのはこの街は「一生懸命遊ぶ街」ということやね。

一生懸命遊ぶ街、ですか?

ここはね、劇場、映画館、パチンコ、スマートボール、麻雀、将棋、射的、ゲームセンター、温泉・銭湯と遊べるところがてんこ盛り。

次の映画の間にさくっと食べてさくっと飲んだり、純喫茶でコーヒー飲んで一息いれたり、甘味処でお菓子食べたり、麻雀しながらご飯食べれたりと、遊ぶための人の飲食を提供するがたくさんあった。串カツも結局、さくっと食べられる。

みんな一生懸命遊んで、人生を生きている。一生懸命遊べる人が仕事ができる。繁華街はそうあるべきや。それが提供できるかどうかは街の命運がかかっている。この辺には遊びが凝縮していた。

高校でも大学でもスローガンがあるやろ、結局そのスローガンをずっとキープコンセプトしているところが残るんやと思う。内国勧業博覧会の時からの「安価な娯楽を提供する」というキープコンセプト、これがこの街にとって大事。だから、商店街はまだ残ってるんやと思う。

ぼくみたいなのがなんでここで商売するかって、ぼくの小さい時を覚えてくれてはる。だから、お客さんでぼくを子供の頃から見ていて、「この子が三輪車乗っている時から知ってるで」、横のおじいちゃんは「わしは乳母車の時から知ってるで」ってね。それがぼくが新世界を愛している理由。

新世界に遊びに来た家族連れの人々 (写真提供:新世界てんこ盛り倶楽部)

この思いに関しては各業種によって違うんやけど、ぼくは思い出の街やから、前から来ていたここに思いのある人たち、今、来てくれるお客さんたちを尊重してよろこんでもらえるものをって思ってる。わずか100年しかない歓楽街だけど100年分の思い出っていうのを来てくれはった人に報いる街でありたいね。

自らで通天閣を復興させた新世界の人々

新世界の名物ストリート、じゃんじゃん横丁で雑貨店を営まれていて、通天閣の再建に詳しい雑野裕史さんに話を聞いた。おじいさんの雑野貞二さんは通天閣を再建された方でもある。

じゃんじゃん横丁移り変わりをずっと見られてきたと思うんですけど

じゃんじゃん横丁って言われているんですけど。古い方とか我々地元の人間はじゃんじゃん町っていう言い方が多いね。僕ら子どもの頃は、学校から帰ってくるときとか、人を縫いながら来るような。家に戻ろう思ってもなかなか戻れへんかったね。

昔、温泉劇場っていうのがあってね。その中に、「新花月」というお笑いの劇場があって、ストリップ劇場、あと映画館と、屋内プールがあった。てんのじ村の芸人さんもここで出とったよ。

じゃんじゃん町はおいしいところがたくさんあるイメージありますが

串カツ屋さんは八重勝さん、てんぐさん、ちとせさんか古くからずっとやってたね。その後、新しいお店も出てきた。純喫茶は千成屋さん、ニューワールドさん、お寿司屋さんは大興寿司、佐平寿司、丸天寿司さんがずっとやってるね。

じゃんじゃんってお客を呼び込む三味線の音からきてるんですよね?

そやね。ぼくの子どものときにはもうそんなんはなかったな。お寿司屋さんの呼び込みの太鼓の音と、あと、温泉劇場に出てた、若井はんじ・けんじさんっていう兄弟の漫才コンビのアナウンスが流れとったな。

おじいさんが通天閣を作られたと聞きましたが?

演壇に立つ雑野貞二さん (写真提供:雑野裕史氏)

そうそう。もともと初代の通天閣があってね、となりの映画館が火事になって類焼してんね。ほんで、戦争の時に、金属供与令が出てなくなった。で、この辺も空襲で焼け野原になった。戦争が終わって、仮設の劇場とかができて街はだんだん復興していくけど、通天閣はあれへん。空がポッカリさみしいまま。「通天閣の再建なくして新世界の復興なし」といって、再建に動き出した。

民間だけでやられたんですか?

そう。当時、新世界町会連合会の会長やってんけど、うちのおじいちゃん、普通にこのじゃんじゃん町でお店やってるだけでお金ないから、資金なんかあれへん。新世界の住民たちでどないか通天閣復興せなって動いたわけ。

写真いちばん左が雑野貞二さん  (写真提供:雑野裕史氏)

発起人が7人おってね、うちのおじいさんが発起人代表で設立準備委員会を立ち上げて、そこでじゃあ実際に再建していこうってことで。

当時、早稲田の教授で内藤多仲博士っていう方がいて、タワーの設計は日本でその人しかできなかったんですよね。設計依頼に東京に行っていて。最初は難色示したっていうのは聞いてますよね。用地確保もまだできてなかったから。

通天閣の建設予定地。初代よりも30mほど北であった(写真提供:雑野裕史氏)

再建するって言うて時間がかかってたから、無理やろ、という人もおったわけ。「建ったらうどんで首吊るわ」と言う人もおった。資金がないから新世界の人に出資ということで株を買ってもらってん。みなさん協力してくれて、お金も結構集まってんけどまだ足りひん。

通天閣の竣工式 (写真提供:雑野裕史氏)

企業に広告を出してもらおうと奔走した。日立さんが入ってくれたのと、奥村組さんが地元のことやしと、施工してくれたのが大きかった。

再建中の通天閣 (写真提供:雑野裕史氏)

で、1956(昭和31)年に完成した。だから、通天閣観光株式会社の株主は新世界の町人やねん。通天閣の中に初代社長雑野貞二っていう銅版があるねん。

雑野さんのお母さま

最初できたときはすごい並んでて、うちのおかんは一番最初のエレベーターガールやってんね(笑)。当時25歳、今は歳やけども。

実はね、おじいさんが亡くなってすぐにぼくが生まれてるねん。だから、みんな生まれ変わりっていうねんけど、荷が重いわ(笑)

変わり続ける新世界のこれから

最後に新世界でかつてパチンコ店も経営されていて、街の変遷に詳しい近藤正孝さんにお話を伺った。

いつ頃、新世界に来られたのですか?

僕のおじいちゃんが淡路島から出てきて、新世界で商売しようか、難波あたりで商売しようかどっちかでしようと思ったらしい。当時は新世界の方が賑やかやったからこっちに来た。1930年代ぐらいかな。街の様子もまったく今と違って上品な社交場というか。家族連れも来るし、料亭もあって、お金持ちが歩いていた街とおじいちゃんからは聞いてる。

1954年(昭和29)年頃のパチンコ店三共会館  (写真提供:近藤正孝氏)

ほんで、おじいちゃんが1954(昭和29)年あたりに、パチンコ「三共会館」を創業した。立ち飲み屋してるような規模のお店がパチンコ屋としてやっているような時代やから、うちの店は大阪の中でも一番大きいパチンコ屋だった。閉店する時はもう大阪で一番小さいパチンコ屋になってもうたけどね(笑)。

近藤さんの幼少期の思い出を教えてもらえますか?

遊んだところは天王寺公園で野球したり、蛇使い見に行ったり。

それみんな行ってますね(笑)

みんな絶対見に行っている(笑)。天王寺公園にガマの油を売るために蛇使いがショーをしてるねん。自分自身の手を蛇に噛ませて、それで薬を塗ってとかそんなことをやっていた。それがまた面白うて。まだ当時は天王寺公園は柵とかなくて入れたね。

高校を卒業して神戸の大学に行ってん。ほんでショックやってん。「え、新世界?なんであんな怖い街に住んでるねん」って延々に言われ続けな。高校までは大阪やったから全く言われへんかってんけど。

そう言われてどう思われましたか?

なんで住んでいるだけで言われなあかんねんと。確かに誇れる街ではなかったけど、住めば都で愛着はあった。でも友達を連れてきて、あえて遊ぶ街でもなかったなあ。自分自身が楽しまれへん街やなと思ってたところもある。好きか嫌いかでいったら嫌いやったかもなあ。ミナミとかアメ村の方が好きやったもんね。新世界に彼女を連れてきて、ちょっとかっこ悪かった思いもしたな。

かっこ悪い思いっていうのは

おっさんが横から近寄ってきて「ええ女連れて歩いて、ええなあ」みたいなこと言いながらぼそぼそ歩いてきてね。今やったら「おっちゃん、ええ女やろ」とか言うてうまいこと切り返せるけど、ハタチそこらの時はきついよね。自分の生まれ育った町でカッコ悪いやら、恥ずかしいやら。

そんな複雑な思いの新世界やけど、大学を卒業して家業のパチンコ屋をするわけ。初めてうちの店出た時に、常連のお客から言われてん。

「あんたがなんで大学まで行けたかってわしらが負け続けたからその金で成長できたんや。今度からはわしらに還元せなあかんねん」

一番最初の洗礼やったな。でも、それは確かにそうやねん。新世界で成長してきて学校にも行けたわけやから、全否定できひんわけよ。

2003(平成15)年頃のパチンコ店ニュー三共  (写真提供:近藤正孝氏)

お好み焼き屋もやってて、そっちも手伝ってたんやけど、こっちの方がやりがいがあった。やりがいっていうのは結局、お客さんがごちそうさまありがとうで帰ってくれるっていう単純なこと。パチンコ屋は、ありがとうって帰らはるのは勝った時だけ。負けた時は言わんわな。腹立って帰る。絶対言わないどころか。ちょっと嫌味の一言でも言うて帰るよね。だからありがとうという言葉をお客さんから聞けるのは。単純に働いていて心地よかったわ。

そんなこんなで、結婚もして子供もできた。パチンコはいややとか言うてられへん。一生懸命働いとった。ガラ悪いお客さんが多かったけどすごい儲かっていた時代やと思う。ガラが悪いっていうのと商売の儲かりは別物やと思うから。パチンコでもガラス割られるくらい、勢いがある方が儲かってるねん。ごちゃごちゃしている中で店の中で喧嘩が起きたりその時の方が売り上げが上がってみたいな。立ち飲み屋でもそうやもんね、中で喧嘩起きようがごちゃごちゃしていて今日は散々やったなっていう時の方が売上は上がってる。冷静やと、お金の使い方が計画的やもんね。

バブルが終わって新世界という街が景気と共に衰退していったそうですが、お店はどうでしたか?

観光客の数で考えたらそうなるかもしらへんけど、景気は悪くなったという表現は適切やないな。パチンコ屋も立ち飲み屋も喫茶店も常連さんがいたから安泰やったんや。バブル崩壊の時もまだもっとったよ。うちは釜ヶ崎のおっちゃんたちが多かったから。売り上げ的には大丈夫やった。

十数年くらい前の話やわ、きつくなってきたんわ。釜ヶ崎のおっちゃんたちは高齢化して、東日本大震災で元気のいい労働者はみんなそっちに行ったり、いろいろな複合的なことで西成から流れてくるお客さんの絶対数が少なくなった。

街のニーズが変わったっちゅうことやな。イメージと売り上げは別やねん。業種によってもその辺の感じ方は違うと思う。誰に聞くかによってこんだけ違うねん。

一般的には、新世界は劇場の街になって、パチンコの街になって、串カツの街になって観光客が戻ってきたみたいな。

単純やし、無難で、わかりやすいし、ぼくも一応は納得する。こんなややこしい話せんでええしね。でも本音で言うたら、それは通天閣の入場者数の動向で新世界の浮き沈みを見ているだけであって、ほんまの地元の古くから商売しているのは観光がメインやないから、観光はプラスアルファの話やねんな。そこをまず抑えんかったら話がごちゃごちゃになってまうねん。

なるほど、パチンコの街から串カツの街になった経緯を教えてもらえませんか。

そこがめっちゃ激動やってん。そこを説明できる人ってなかなかおれへん。パチンコの街って言っている時点でお客さんは西成からの人やねん。お客さんは労働者の方も多いね。要は常連さんやねん、やっぱり。

串カツ店が多く並ぶ新世界のメインストリート 新世界本通

観光客が増えて、日曜日なんかもパチンコ屋さんを開けてるねんけど、お客さんは高齢化して減っていっている。でも、店の前はどんどん人が通ってんねん。でも全部うちのターゲットの層じゃない。ファミリー、カップル、女の子のグループ。うちに入るわけがないお客さんが新世界にどんどん来ている。この状態ではなんぼやってもあかんわって思った。それが今から10年ちょっと前かな。

新世界100周年が2012年にあった。他のお店が結構言っていたのは100周年の時は結構忙しかったですよって。でも、うちは全然関係なかった。100周年の恩恵なんて受けてなかったんよ。やっぱり客層が違う。100周年の時に完全にその兆候が出てた。どんどん観光一色になっている。

やっていても客入るわけないやん、これ悪くなる一方やなと。パチンコ屋が4、5軒あった時、たまたまうちが今日暇やったとしても、他の店がぎょうさんはいっとったら、新世界に来るパチンコ層っていうのは、ある程度一定やから、明日になったらお客さんは戻ってくる。心配ない。でも絶対数が減ってきているとこれが一番問題でどうしようもできひん。一番多い時で12、13軒パチンコ屋あったよ。まあまあ200〜300台くらいの店が多い。10店舗以上あってん。それがもうどんどん減っていって。その後に串カツ屋になった。うちのパチンコ屋もね、2015年に串カツ屋さんに貸すことにした。

現在、パチンコ店のあとにできた串かつ店

新世界の本通りあたりに大型店あるやん。200、300人はいるところはパチンコ屋やった。もっというと昔は映画館やった。なんであんな大きな串カツ屋があるのっていう大きすぎるやん。その前はパチンコ、その前は映画館で元々大きな箱やってん。

なるほど!だからか大きい店が多いんですね。

その時にインバウンドでどんどんお客さんが来てね。結局パチンコ屋やめてよかったね。他のパチンコはみんななくなってもうたから。

インバウンドはどんな感じでした?

街にどんどんホテル、ゲストハウス、民泊ができていった。うちは、今、喫茶店してるんやけど、息子がインバウンドに力を入れて、外国人が入れる店作りをしたから忙しかったよ。インバウンドのお客さんって長期滞在もいるから、平日も遊んでくれるから、平日の底上げになったと思う。ふらっと2人くらい入ってきて飲んだりしていたから、つられてまた入ってきたり急に忙しくなったなっていうのがよくあった。なんちゅう平日やって。

新世界に新しくできた宿泊施設

でも、インバウンドはバブルやったな。バブルの時って弾けないとバブルだったと思われへんから。ただインバウンドは戻ってこないと、いろいろ設備投資したお店も施設も会社ももてへんやろうからはよ戻って欲しいなと思う。

近藤さんが新世界こうなったらええなってあります?

いつも言うのは、街なんていうのはどんどん変わっていくものであって永久にそのままの街なんていうことは絶対ないと、50年の中でも劇場からパチンコから串カツ屋の街になりこんなに変わったわけ。10年後どうなるかなんて予想もできない。

ただ新世界という受け入れる器さえしっかりしていれば、いろいろな業種が入ってきてもそれなりの街になるだろうと。観光地と違って繁華街になっているかもしれん。夜の街として発展しているかもしれん。それはそれで街として商売として成り立っているし否定はせえへんと。今、新世界はレトロと言われているけど、レトロなんて永久に続くものじゃないし、価値観は時代で変わっていくものだから、変化していくのに受け入れられる器づくりがいる。

将来はもちろん新世界が発展しといてほしい。もっと言ったら自分の子供とか孫とかが新世界で商売したいなと思うような街になっといてもらえたら嬉しい。たまたま今は観光地のイメージが強なっているけど、新世界は観光地やって言い切れるものでもない。

変化が大切とおっしゃいますが、逆に変わらないことってありますか?

新世界はいろんなものを許容できる街ってことかな。変わったイベントとか、映画の撮影とか、来る人はあんまり拒めへん。いろんな価値観を受け容れられるねん。他の街よりも度量は大きいと思う。その度量の大きさはこの街の可能性やと思う。

あと遊べる街ということやね。どんなことでも楽しめる。半日おったら半日遊べる。朝から飲みながら、遊べるっていうのもあるし気を張らないで遊べる街なんやろね。

でもね、バブルの時に新世界ってマンションが増えたんよ。駅に囲まれてるし、ミナミとか天王寺とかもすぐ。絶好の場所なんや。もちろん、住んでいる人もおるし、ぼくも住んでるけどただの住宅街になってしまうのはちょっとちゃう。観光であり、遊びであり、楽しめる街であり続けないと。だから、そういう発信をしていかなあかんっていう。通天閣から、地元から、お店からの発信であり、それが複合的に重なっていっていく。知らん人から見たら新世界って遊ぶ街、商売する街なんやなって、イメージが膨らんでいく。そういうのが街の動きで必要なことなことやね。

最後に、新世界への思いを教えてください。

若い頃は嫌いやったし、今もどうやろう、新世界を愛せるか言うたら微妙やな(笑)。でも、めっちゃ愛着はあるな。ここで人生送るんやったら、なんとかしたい。楽しく生きていきたいな。

新世界を巡る

往時に思いを馳せながら、現在の新世界を散策してみてください。

新今宮の歴史

古くも新しい、不思議な新今宮の古代から令和までの歴史。

通天閣

新世界にそびえ立つ、なにわのシンボル。

ジャンジャン横丁

呼び込みのための三味線の音がジャンジャンと響いていた。

串カツ

二度づけ禁止!名物串カツを食べくらべ。

純喫茶

レトロ純喫茶でほっとひと息。

将棋

庶民的な娯楽として親しまれてきた。

昭和レトロ遊び

昔ながらの遊びがたくさん。

大衆演劇

演劇や歌謡ショーなどが楽しめる。

温泉・銭湯

昔ながらの風情が残る憩いの場。

 

監修・協力:西成情報アーカイブ