新今宮にはかつて新世界にあったフェスティバルゲート*という娯楽を集めたビルの中に、「新世界アーツパーク事業」という大阪市の文化事業で誘致されたアートプロジェクトが多数存在した。
釜ヶ崎芸術大学とkioku手芸館「たんす」は、どちらも当時の新世界に誘致された活動が発展して、西成区の芸能の聖地・山王にて、地域密着のアートコミュニティとして育っている。
それぞれのアート活動に従事される方々へのインタビューを通じて、この街に溢れるアートの魅力を紐解いていく。
*フェスティバルゲート:かつて新世界にあった複合型娯楽施設。2007年(平成19年)に閉業。
アートが照らす、名もなき人生。
釜ヶ崎芸術大学
詩業家であり、NPO法人 こえとことばとこころの部屋cocoroom(ココルーム)代表・釜ヶ崎芸術大学主催の上田假奈代さんにお話を聞いた。
釜ヶ崎芸術大学は、「学び合いたい人がいれば、そこが大学」のキャッチフレーズのもと、2012 年(平成24年)に西成区釜ヶ崎でスタートした市民大学。地域の様々な施設を会場に、天文学、哲学、美学など、年間約 100 講座を開催している。1講座1000円以上の応援参加費で、住んでいる地域を問わず誰でも参加できる。俳句のワークショップ、釜ヶ崎夏まつりでのダンス・合唱発表会、井戸掘り体験、路上生活者へおにぎりを配給する夜回りなど、その活動範囲は多岐にわたる。現在は近隣の高校や中学校への出張講座や、オンライン配信サービスを活用したリモート講座も行なっている。
今の「釜ヶ崎芸術大学」は、当時の大阪市の文化課の方から、新世界にあるフェスティバルゲートというビルの中に、新世界アーツパーク事業っていうのをつくるけど参画しないかと声がかかったのがきっかけ。とっても変わった仕組みで公設民営でね。家賃と水道光熱費は行政が負担するの。でも他は何にもないの(笑)
そう。事業費とか人件費とかはなにもなくって電球1つ変えるにも自分たちで用意しなくちゃいけない。それを活動場所ができたと思って喜ぶのか、どうやって運営するのかって悩むのかは人それぞれだと思うんですけどね。なんせ詩業家宣言をした私としてはこの場所を使って仕事を作れるんじゃないかと、野心です。
大阪には表現者として仕事をしようと思ってもちょっと芽が出ると東京に行くか海外に出るしかなくて。残っている人たちはバイトに明け暮れてなかなかしんどい状況でね。せっかくこれまで就職もせずに表現活動をしてきたのに、世の中からはなかなか仕事として見られないっていう状況。だからこの場を使いながら表現の場をつくること自体を仕事にできたらと思って。表現活動をしている人たちと一緒に仕事をつくっていこうと思ったんです。
家賃はないけど、そこでお金を生み出さないと生きていけないから、若手の実験的なアート表現活動を行うなど、いろんな事業を考えて助成金申請も覚えて活動を続けました。
ココルーム。2003年(平成15年)の4月にココルームがオープンして「こえとことばとこころの部屋」。「こ」が多いから。喫茶店のふりをするのもその時から。NPO法人になったのは2004年(平成16年)の10月です。
いくつか理由があるんです。例えばアートの場所ですって言ったら世の中の人は敷居が高いっていうか訳がわからない。喫茶店にうっかり入ってくれるでしょ。そこで壁にいろいろポスターが貼ってあったり、リハーサルから漏れ聞こえてくる音を聞いて、これ何?とか、表現へのきっかけが生まれるんじゃないかというのが1つ。
もう1つは喫茶店をしたら食べ物を扱うからスタッフ達がそのご飯を食べたら食費がかからない。こんな仕事って、自分たちの食事が後回しになりがち。でもみんなで食べるなら、抜いたりしない。都会って1人でご飯を食べる人が多いからみんなで食べるっていう風にしたんですね。お客さんもスタッフも一緒に食卓を囲む。そして大皿料理にしたんですけど、それは食べ残しを捨てないっていう考えなの。ささやかだけど、食品ロスへの取組みです。
お客さんに「どこから来たんですか」とか「最近面白いことありましたか」とか聞くとみんなポロポロ話してくれるんですね。関心事とか困り事とか。例えば若い人は仕事を怖いと思っていたり、人間関係が苦手だとか、そういう声が多くて。いつの間にか私は社会の問題とされる前の声を聞いていたんですね。ニートっていう言葉が出始めたのは2004年(平成16年)なんだけど、2003年(平成15年)からもうキャッチしてたよ。
それで就労支援カフェに取り組んでみたりね。コミュニケーションのワークショップを演劇をしている方に講師で来てもらうとかそういうことを始めたんですね。本当に一生懸命だったんですよ。新世界で朝から夜中まで休みなく働いてたの。夜中、建物を出てみると大きな荷物を持って歩いて行く人がいる。ホームレス状態の人で、どうも隣の西成というところからたくさんいらしているとわかってきたの。
釜ヶ崎で活動している人たちがココルームに遊びに来るようになったんですね。支援活動をする人たち。私はコーヒーを出しながらその方達に教えてもらったんです。この街の成り立ちとかどんな状況なのかとか、何をしているのか。釜ヶ崎のおじさんたちが日雇い労働者からホームレス状態になって高齢化して、今は生活保護にずいぶん移られるようでした。
釜ヶ崎のことを詠んだ詩を釜ヶ崎の自転車屋で朗読することになったんです。詩のなかに「人生の荷物はふたつ。右手と左手がふさがればもう持てない」っていう夜ずっと歩いている男性のことを詠んだ。そしたらそこにいた労働者風のおじさんがスポーツ新聞紙にペンで「人生の荷物はふたつ」って書いて、良かったよって私に見せてくれた。こんなビビットな反応は初めてで、感動した、やられたって感じですね。
私は1969年生まれ。ちょうど高度経済成長期ですね。だんだん世の中が便利になるのを子どもながらに感じで育っていたわけ。それを支えていたのが建設労働をしていたこの人たちなんだなと思って。
仕事をしてきたおじさん達は今路上生活をして、迷惑かのように言われて。おじさん達はご自身の人生をどのように捉えていらっしゃるのかっていうのを聞いてみたい。偉い先生や政治家の話だけでなく、これからの社会を考える時の何かヒントになる、補助線になるのではと思ったの。
でも私が聞いたところでどうするのって思いもあり、でも聞きたい欲求があって(笑)でも聞かせてもらうってやっぱり責任があるよなとか、自分で何を言っているか未だにわからないんだけど。ともかく興味があったの。
それで釜ヶ崎って街に関心を寄せていたら新世界のフェスティバルゲートで10年の活動って言われていたのがそんな約束はしていませんって言われて結局5年で打ち切りになってしまったの。解散するのもよし、どこ行くのもよしのタイミングで私は釜ヶ崎に移ろうと思ったんですね。その時小さな元スナックの物件が安く借りられて、ココルームを動物園前の一番街に移転して2008年(平成20年)にオープンしました。変わらず喫茶店のふりをして。
その年にはリーマンショックがあって、日本が釜ヶ崎化していくのです。その時に私が知る釜ヶ崎っていうのは毎日どこかで炊き出しがあったり相談窓口が開いていたりおせっかいな人がいて生き延びる街なんだなと思っていました。でもおじさん達の高齢化が進んでいて、少し音が変わるんですよ。
これまで威勢の良かった足音がちょっとゆっくりゆっくりになり、歩行器を使うようになり音が変わってきたんです。
2010年(平成22年)くらいに気がついて。ココルームまで来てもらうのにはおじさん達大変なんだと。それで、三徳寮に共催いただいて、あいりん総合センターすぐの第二住宅の一階で、月に1回9ヶ月表現のワークショップ「まちでつながる」を行なったんですね。そのときに1人のおじさんが全回参加してくれたんですよ。ところがそのおじさん、実はアルコール依存症でお酒をやめようと思っていたタイミングだったんだって。そして9ヶ月間お酒をやめられたんですよ。
で、もう名言!
──「酒をやめるのはくすりでやめるんじゃない、人生の楽しみでやめるんや」
って言ったのよ。月に1回楽しみにしてくださったのね。
もうひとつ言われた。老人にはね来月なんて生きているか死んでいるかわからんって。それを聞いてうちのスタッフが、もうちょっと短いスパンで集まれる表現の場所をつくったらどうだろうかということで釜ヶ崎芸術大学が始まっていくの。
当時2012年(平成24年)。街はそのころちょっと動きがでていて、あいりんでも釜ヶ崎でもなく「新今宮」っていう地名を押してゆきたいって声が上がってきたころ。まさに、この「新今宮ワンダーランド」ですよね。私たちはまったくニュートラルな立場で、過去のことも知らないし未来に責任があるかもしれないけど今ここに立ち会っていて感じるこの街の歴史性に敬意を払ったときに「釜ヶ崎」って名前がとても大事だと考えたの。
よそ者で若者の私たちが釜ヶ崎芸術大学って名乗ることによって、高度経済成長を支えてきた一人ひとりのおじさんたちがこの世界をつくってきた人たちという存在として立ち上がり、そこから学んでゆきたいという思いを持ったんです。
そう。でも私たちが釜ヶ崎芸術大学なんて名乗るなんて、おこがましいです。本当にぺーぺーだけど、リスペクトとして名乗ろうと覚悟を決めて釜ヶ崎芸術大学が産声をあげました。
初めのうちは4ヶ月くらいの講座だったけど、とても手応えを感じたんですよ。おじさん達しか参加しなかったですが、クラスメイトやからなって言って最近来ていないおじさんのおうちを訪ねて行く人がいたり。グタグタ言うからみんながうんざりしていた人がいたりね。ある時、なんでここに来ているんですかって聞いたら、「コミュニケーションを学びに来てるんや」って言ったんですって。今までめんどくさい人だなと思っただけだったけどそれを聞いて、なるほど、と。その正直さに心うたれたのよね。
そうね。だからおじさん達の新しい出会いの仕方。ちょっと学術系の言葉なんだけど、釜ヶ崎には不関与規範っていうのがあるの。この街の人たちには過去に何かあったから流れてきているんだろうとお互いに思っているから、本名は名乗らない、過去を尋ねない、自分がどこに住んでいるか、そういうこと言わない、聞かない。飲み屋でその日出会って楽しく飲んで、じゃあって言って別れるのがマナー。
つながりを持つのは野暮なことなんですね。でも生活保護になったらそう簡単に引っ越しはできないし、体力も落ちてきているわけだし、暮らし方も関わり方も変わってきている中で、表現の場が人と繋がる場でおせっかいな居場所としてあってもいいのかなと。地域の中でなんかやってみようよ。暇潰しに、いかがかと。
エピソードがあるの。Aさんっていうおじさんがココルームに毎日5、6回くらい来て注文もしないでずっと座って、隣にいる人をだいたいつねる。彼が入ってくると、そのことを知ってるお客さんがバーって帰るのね。スタッフから出入り禁止にしてくれと。私は、のらりくらり。トラブルが起こるたびに、一緒に外に出て、話を聞いて、気持ちが落ち着いてから来てね、と伝え続けたの。
小さな店内では詩を書いたり俳句をしたり、カルタをしたり、小さなワークショップを開いてたの。おじさん達となんとか一緒に表現の場を作ろうとしてたのね。彼は毎日来るのに誘っても絶対参加しないのよ。
わからなかったの。でも1年半くらい経ったときに手紙を書く会を開いているときにAさんが入ってきて、きっと断ると思ったんだけど声をかけたの。そしたら。書くって答えたのね。ええ!どういう風の吹き回しと思いながら隣に座って書き始めたら手が止まって。字の書き方を私に聞いてきたのね。彼は自分の名前はかろうじて書けたんだけど、あんまり字が書けなかったのね。ひらがなさえも。
これまでいろんなワークショップに誘っても嫌だよね。そりゃそうだわ。でも彼が思ってくれたのは、ここでもし自分が字が書けないことがバレても笑ったり馬鹿にする人はいない、もしいたとしても絶対に私たちがそんなこと言ったらあかんって言うことを信じてくれたからだと思うのね。
表現をするっていうことが一番大事なんじゃなくて、その人の存在が認められて、安心して表現できる場をつくることが表現の場をつくる私の仕事なんではないかしら。このことの大切さを教えてくれたのは、なんと釜ヶ崎のおじさんでした。
Aさんの絵が可愛くって。みんなが、うわあ!かわいいって褒めるのよね。あんだけつねりまくっとった人がにっかーって笑って機嫌良くなる(笑)。そしたらね、落ち着いて話をしてくれることも増えてきたの。でも未だに喧嘩もするよ(笑)
一人一人の存在のことですね。どっこい生きてきた。それが伝わるといいなと思ってる。何度もおじさん達と遠出はしているんですよ、横浜、八戸、鳥取に行ったり。でも体力とかお金の問題とかで難しいから、それで映像に収めたり展覧会のかたちも、ありだと思ってる。無名の一人一人が生きていることが伝わればいいなと思ってる。そしてそれはあなたもそうだし私もそう。そんな思いがありますね。
おばちゃんたちとのズレが生み出す、アートの可能性。
kioku手芸館「たんす」
一般社団法人brk collective[ブレコ]代表であり、大阪市西成区山王にある元タンス店を活用した創造活動拠点・kioku手芸館「たんす」を運営する松尾真由子さんにお話を聞いた。
「たんす」では、不要になった布/毛糸などを活用し、地域の女性の手仕事によるオリジナルプロダクトの制作や販売、美術家との共同制作により立ち上げたファッションブランド「NISHINARI YOSHIO」の工房兼ショップとして、週2日オープンしている。
2008年(平成20年)で、ちょうど14年前。その頃は「たんす」はまだ生まれてなかったんですけど、当時大阪市の文化事業であるブレーカープロジェクト*の事務局に入ったのがきっかけですね。
ブレーカープロジェクトの最初の事務所はフェスティバルゲートにあって、子育てをしている時期によく子どもと一緒にお客さんという立場で新世界に来ていました。そのときにアートマネジメントという言葉を知って、作り手とお客さん/地域の人をつなぐ役割というか、つなぎ手という役割があるんやと思って。自分が好きな作品なり世界を、全然知らん人とか興味ない人とかにも、こういう風に関わったら面白いよとか、伝え方次第でハードル高かったものが身近なものになる可能性があることが分かって。そういう活動に興味を持ったんです。
*ブレーカープロジェクト:2003年(平成15年)より大阪市の文化事業としてスタート。独自の表現手段を開拓するアーティストとともに、まちの中に創造の現場を生み出し、地域の人々と様々な関わりをつくりながら「芸術と社会の有効な関係」を再構築していく取組みです。
そうそう、まだまだそういうイメージを持ってる方は多いかもしれませんよね。でも、つなぎ方や、伝え方次第では身近なものに感じてもらえたり、その魅力を知る人を増やせることが出来る仕事って面白いなと思って、ブレーカープロジェクトのサポートスタッフに関わるようになったんです。その後、事務局スタッフになって14年、この街に通い続けてますね。
kioku手芸館「たんす」ができたのは2012年(平成24年)12月なんですけど、ブレーカープロジェクトの活動の一環として、2011年(平成23年)度から3年間招聘していた美術家・呉夏枝(お・はぢ)さんが、西成区山王エリアで作品を制作するにあたり、地域の女性たちのストーリーを集めるリサーチとしてのワークショップ「編み物をほぐす/ほどく」の場としてオープンしました。
「語られなかった記憶」「言葉にできない記憶」を探求し、織る/ほぐす/結ぶという手法で創作活動を行ってきた呉さんが、この地域の特に女性たちに話を聞いていきたいとなったのですが、唐突に思い出とか記憶の話を聞かせてくださいって言っても難しいじゃないですか。なので、ワークショップを実施して、家庭のタンスに眠る編み物を集め、共にほどく作業を通して話を聞いていくことになりました。
最初の会場は地域のデイサービスセンターの交流スペースをお借りして1年ほど行いました。施設の利用者の方や地域からも参加者が集まってくださったのですが、だんだんと固定化していく状況もあって、もっとフラットに来やすい場所をつくれたらいいなとなり、新たな場所をつくってみようと物件探しを始めました。この山王の中でも人通りの多い北門通で探して、ここにしようかってなったのが今の場所です。
当時はね、ここでタンス店をされていたご主人が亡くなられて数年空いているという状態だったのかな。1階は商品のタンスで全部埋まっていたり、物がたくさんある状態だったんですけど、掃除・片付けは私たちがするんで貸してほしいとお願いしました。
改装は表の扉面と仕切りの壁を2つつけたくらいかな。サポートスタッフを募集して建築科の学生の子が来たり、社会福祉協議会から元々解体業してたボランティアの方を紹介いただいたりして、2ヶ月くらいかけて作業をしました。オープンしてからは、週2-3 回のペースでワークショップを行い、2年間かけてほどかれた100着分の糸玉は、ほどいた編み物の記録カードなどと共にインスタレーション作品として発表しました。
そこで呉さんとのプロジェクトは終了したのですが、ワークショップをずっと続けているうちに「たんす」に通われる方が生まれてきて、もう少しこの場所を続けていきたいなという話になり、そこから2年、美術家の薮内美佐子さんを招聘して、新たなプロジェクトをスタートさせました。薮内さんはダムタイプのパフォーマーとして活躍するほか、絵画やアニメーションなどの制作や身の回りにあるもので日常的に何かをつくり続けている方で、「たんす」に通われる地域の方と編んだり、縫ったり、歌を作ったり、いろんな創作活動を展開しました。薮内さんの魅力もあって、おばちゃんたちが表現を開花していくような2年間で。新しいことに挑戦することだったりとか、つくったものを身につけてポートレートを撮ってみましょうとなった時も、恥ずかしがられてたのが、どんどんポーズも取れるようになって「楽しい」ってなっていくんです。それを見てさらに「たんす」の可能性を感じましたね。
次に2016年(平成28年)4月からは、美術家の西尾美也さんを招聘して2年間のプロジェクトが始動しました。西尾さんは国内外のアートプロジェクトや展覧会などで集まった参加者の方たちと協働でプロジェクトを展開されているのですが、そのプロジェクトが終わったら解散という形が多いようです。でも「たんす」の場合は違って、すでにそこに通ってる方がいる状態で、西尾さんのプロジェクトが終了したとしても通い続ける方や「たんす」の場所は残るということが西尾さんにとっても今までにあまりなかったような状況だったみたいで。
そこで出てきたプランがファッションブランドを立ち上げるということでした。私達にとっても「たんす」がオープンして4年くらい経ち、「たんす」に通うことが日課、日常になっている地域の方たちも生まれつつある中で、継続していく道や自立していく方法を探っていく時期でもあって。ファッションブランドを立ち上げることで、次の展開の可能性が見てくるかもしれないなと。
まずは西尾さんがこれまでにやってきた服作りのワークショップを6つ実施しました。「音のなる服」や「工夫して着る服」など、みなさんの服作りの固定概念を崩してもらうっていうのを1年くらいかけてやりました。
今はみなさんに「このYシャツから四角く生地を切り取ってください」っていったら「はいはいはい」って当たり前のようにやってくださるようになってるけど、当時は「えー!」「なんでこんなことするのん?」「服にハサミなんて入れられへん!」とめちゃくちゃ抵抗があったんですよ。みなさんはお子さんとかに服を作ってきた経験も知識もあるし、最初の頃は毎回ちょっと不穏な空気で(笑)
でも西尾さんがたんたんとやりたいことを伝え続けることで、渋々でも作られるんですよね。そうしているうちにちょっとずつ面白さが見えてきて。
そのプロセスのなかで、西尾さんがいろいろ出すお題に対して、解釈がずれたりとか、そういうつもりで言ったんじゃなかったけどこうなった!とか。アレンジが入ったりとか(笑)その予期せぬズレを面白がって、そこからさらにアイデアを更新していくという「NISHINARI YOSHIO」のコンセプトが立ち上がりました。
ファッションブランドってよくデザイナーの名前がブランド名になっていたりするじゃないですか。西尾さんから「ブランド名はNISHINARI YOSHIOでいこうと思います」って言われた時は、「にしおよしなり」のアナグラムになっていて、驚きました!そこもズレる感じというか、おお!ニシナリが入ってた!と運命的な感じがしました。
ね(笑)次の1年は、身近な知人をモデルに、その人への思いやりをデザインするというお題のもと、一人ひとりが思い描くモデルの仕事や生活、特徴などのエピソードから服作りを行いました。どの服も一つ一つにテーマがあって、まずはプロトタイプをつくって、そこからパターンを起こして商品化していくっていう作り方をしているんです。
これ、酒屋シャツっていうんですけど、メンバーの一人の方が近所の酒屋さんでずっと働いてはって、そこの奥さんがお花好きやからっていうエピソードから、ビール瓶に花が活けてあるっていうデザインになっています。
これもまた「やきとりジャケット」っていって、近所の鶏肉屋の女将さんが焼き鳥を焼くときに腕をやけどしてるっていう話から、じゃあ袖の部分を分厚くしてやけどを防ぐっていう思いやりでパッチワークを施すデザインが生まれたんです。
「たんす」に集まったハギレを100枚くらい使ってパッチワークしてます。布を切る、アイロンをかける、ミシンで縫う、分業しながら制作しました。「NISHINARI YOSHIO」の洋服は、みなさんの得意な部分とか個性の部分を活かしながら商品を作ってるという感じです。
最初は「わけわからん!」とか、「もうミシンいややー!」とか仰ってましたけど、自分がデザインしたものが売れていったりとか、「すごく良い」と気に入っていただけたり、こうやって取材していただいて注目されることで、どんどん意識は変わってきている気はしますね。西尾さんから出されるお題のハードルが高ければ高いほど、やってみるのに燃えてはるなって。西尾さんが来館されるのは毎回じゃないんですけど、来られる時は「西尾さんには会いたいけど、会ったらまたすごいお題を言われるから会うのが怖い」と(笑)
この前、Yシャツを使った新商品の制作をスタートさせた時も、四角く生地を切り抜くというお題に、「またそんなこと言って、でもまぁ西尾さんの言いたいことわかるわ」という感じで、真っ直ぐばっかりじゃ面白くないから斜めに切り抜いてみた。と慣れた様子で作業されていて(笑)で、その後に、西尾さんから「切った部分のストライプを編み物で再現する」ってプランを聞いたときに、おばちゃんが「負けた!」って叫んだんです!西尾さんは、やっぱり上行くわ〜って(笑)
私にとってはそのやり取りが感動的だったんです。自分の想像を超えてきはる発想力に、おばちゃんたちは感化されてるっていうか。これまでもそうだったんですが、そのやりとりがどんどん進化している感じがしています。
おばちゃんたちも自分たちの限界を超えて、そこに挑戦することで自信につながってると思うんですよね。みんな大変大変って口では言いながらも、次どんなお題が振られるんやろってわくわくしてるところが、すごいなと。
宿題も、頼む場合もありますが、だいたいは「家でやってきます」って自ら持って帰られます。家でも家事の合間に作業されるのが日課になっているようです。
それに、おばちゃんたちがテレビ見たり街歩いたりしてると、若い子とか芸能人がどういう服着てるかとかもすごいチェックしてて、「この前もお医者いったときにな、ツギハギのズボン履いてる人おってよかったわぁ」とか。まちなかで出会った若い女の子が着てた服がすごいよかったから写真撮らせてくださいって声かけたとか、好奇心や探究心に感心してしまいます(笑)
ほんとに。自分もみなさんから見習いたいことや刺激を受けることがたくさんあります。
私が住んでる街では出会えないものがたくさんあることですかね。私の住んでるところはニュータウンで、全部マンションしかなくって。商店街もなければ、路地とか銭湯とかお地蔵さんとか、昔からある店とかもない。私にとっては憧れるものや風景がたくさん残る街です。あと、この街はちょっとした大きな家みたいに感じることがあります。いい意味で日常が染み出してる街やなと思っていて。いろんな歴史を含めて乗り越えてきた、受け入れてきた街だからやと思うんですけど、その包容力や許容力に私もほっとするというか安心するというか。いつも新鮮な刺激をもらえるのが魅力ですね。
監修・協力:西成情報アーカイブ