新今宮では、新世界や釜ヶ崎をアートで活性化しようとする祭りやウォールアートの活動が芽吹き、すこしずつ枝葉を広げている。
アーティストたちが祭りやウォールアートを通じて新今宮に何を根付かせようとしているのか。「セルフ祭」と「西成WAN(ウォールアートニッポン)」の2つのプロジェクトの関係者にお話を伺った。
己を祭れ。新世界の奇祭、セルフ祭。
新世界の通天閣の横にある新世界市場で飲食店を営み、「セルフ祭」をはじめとした斬新な商店街活性化プロジェクトに取り組む、くまがいはるきさんにお話を聞いた。
セルフ祭りとは、新世界市場で開催される、誰でも参加OKの21世紀型の奇祭。ただ見ているだけではなく、参加して、己を祭って、家に帰ってただいまを言うまでがセルフ祭だという。
新世界に来たきっかけは東日本大震災で、僕の出身は宮城県気仙沼市ってところで、そこで震災で被災してしまって。でも震災のときは静岡の浜松で陶芸家やってて。で、そのときに被災してしまったってことで陶芸の道を一旦中止して、宮城に帰ったんですね。
宮城県警にあった宮城県沿岸パトロール隊っていうのがあって、そこに入って、なんだろう、沿岸部の巡回とか、仮設住宅の巡回とかしながら、個人で有志をあつめて復興活動をやってた感じかな。
で、パトロールを1年近くやってて、どうしてもね、震災に対して折り合いがつかなくてキャパオーバーしてて。やっぱ今思うと軽い鬱だったんだろうね。いろいろ難しくなってきちゃって。2012年(平成24年)の3月に沿岸パトロール隊をまだ続けるか、そこで一旦静岡に帰るかってなったんですよ。
いや、大阪にコタケマンというアートをやってる友達がいたので彼の家に行きました。僕にとってこの消化できない震災に対しての気持ちを表現したいタイミングでもあって。一般の人はそうじゃないかもしれないけど、そういううねりみたいなのがあったのね。僕はそこに飛び込んでいったっていうのと、逃げたって感じもあるよね。たぶん同士がほしかったんだろうね。
で、お祭りを立ち上げると。
そう!セルフ祭っていうのは、その名の通り自分自身で何かをする。たとえば、レストランに行って水セルフサービスってあったら自分で取りに行かないといけないじゃん。それと同じように、自分自身で何かをやっていかないといけない。それがセルフで、祭りだから、自分たちで祭りをやっていくって感じかな。
えっとね、最初はパレードとかやっていって、おかしな着ぐるみを着て大阪城いったりとか、御堂筋いったりとか、3〜4人ずつでゲリラでパレードやってたのかな。
そのときはいろんなものを詰め込みすぎて、ごった煮みたいな。震災があって、みんな心の中にあったものとかが祭りっていう器があることで爆発しちゃったんだよね。通天閣の前でみんなで円になってぐるぐるやったりとか。・・・まぁ怒られたんだよね。
そうそう。反省してます。
これがすごくて、この新世界市場は10年前はシャッターだらけの商店街って感じで。北側はまだいいけど、南側なんかはもう僕の店しかないっていう感じだったの。そこでまぁいろんな手伝いよね。主人の人たちは割と高齢だったんで、ものを棚にあげてほしいとか。当時の新世界市場は本当に汚かったんで、掃除とか。そういうのをみんなで定期的に率先してやっていったの。
で、なんかよくあの子らはやってくれるって話になったみたいで。今僕の店がある場所をセルフ祭の事務所として貸してもらえることになったんだよね。それからここに住みはじめて。セルフ祭の初期メンバーに東京や北海道の仲間もいたから、3人で住んでたの。そして変わらず僕らは商店街の手伝いをずっとしてた。手が器用だから「くまがいくんところに大工やらしたらいいよ」とかお願いされたりね。
うーん、やっぱり圧倒的に高齢の方しかいなかったけど、祭りを起点に若い才能がどんどん流れてくるようになった。そこで商店街の中で買ったりとか、個人間でコミュニケーションしたりとか、人間関係のそういうのはすごくよかった。新陳代謝っていうのかな。若さとこの古い市場にはそういうのなかったし。かなぁ。
ファーストアルバムっていうのかな、個人間の。いままで表に出してなかったことをセルフ祭という器があることで、なんのはばかりもなく自分の表現ができるんですよね。そういうところじゃないかな。これはすごいな!みたいな。あと単純に、楽しそう!お客さんが。
できたら参加した方が楽しいと思いますよ!参加しやすいと思いますし。衣装コーナーっていうのも用意してたから、そこで着替えて化粧したら参加できるし。この時間からパレードします、みたいな。大名行列みたいな。そういうのもなんか参加しやすいよね。
僕が新世界市場で商売してる限り、もう切れないですよね。初めの頃は市場の内側に入って、内側に住んでて、みなさんの協力を得て祭りができるじゃん。今って少しそこが変わっている気もする。でもそれが新しい祭りになりうるのかもしれない、とも思ってる。
でも祭り以前に磁場があるよね。この場所にみんな惹きつけられてやってくる。僕が最初に新世界市場に訪れたときなんて魔界村みたいな、そそる要素しかなかった。こんなに通天閣の目の前に取り残されてる場所があるんだって。この特殊なエリアだよね。5分もあれば西成区に入って、労働者のエリアがあって、その奥に旧遊郭があって、海外バックパッカーも泊まりにくる宿があると。飲食もあるし泊まるところもあるし、交通の便もいいし。
人間交差点だなーと思っていて。ここはって言うか、この街全体かな。セルフ祭も一期一会の世界だったけど、元シャッター商店街だった新世界市場にセルフ祭でくるような人が来れるように店を作ったの。365日これる場所にした。だから飲食で儲けようとか思ってなかったな。でもジビエとかハンバーガー屋さんとか、イベントスペースとか、ラーメン屋とか・・・あらゆる自分の考えられるアイデアを形にしていって、それも一種のアートなのかなと思って。あと稼げるイベントより、稼げないイベントの方が楽しいんだよね。稼げるイベントって正直しんどいんだよね。
でもインバウンドのお客さんも沢山きてくれたし、彼らはやっぱ旅慣れてて、感度が高くて、臆することなく入ってくる。ハマったら連日来て、帰ったら友達に話して、その友達がまた来るみたいな。口コミだよね。
あと西成の労働者の人たち。仕事で出会った人もお客さんにいるよね。話してて楽しいよね。人間味があって。
総括すると、この辺りはそそる要素しかないのにまだ入れていない人もいると思うんだよね、なかなか。でも言いたい。入ってみたら結構楽よって言う感じかな。いろいろウェルカムだしね、ここは。
アートもそう、セルフ祭もそう、震災も津波っていうのが外から来て、全国からいろんな人達が来たわけじゃないですか。その人たちが東北の人と結婚したり、家族になったり、住み始めたり、事業をしたりして新しく動き出したこともある。
震災を肯定するわけじゃないけど、色んな人が入るようになって新陳代謝も起きた。内側からは起こらなかった変化だと思うんだよね。今いろんな10年が経ってるから、こっからだろうなと思う。新世界とかも僕らみたいなのが入って来たっていうことが、もしかしたら内側からは生まれない変化かもしれないね。
外からの新しいもの。
それは人かもしれないし、アクシデントかもしれないし、きっかけはわからない。
ここから いまから。
ウォールアートの魅力を日本中へ!西成WAN
阪南大学国際観光学部・松村嘉久教授に西成区発のアートプロジェクト、西成WAN(ウォールアートニッポン)の取組みについてお話を伺った。
西成WANは、落書きの多い壁に外から人が見に来るようなアートを描いて、見に来る人の目で安全や安心を確保し、新今宮の底上げをしようとする取り組みである。
西成WANの言い出しっぺはSHINGO★西成さんなんです。いつだったか、確か2013年(平成25年)の夏の終わり頃。SHINGOさんが「先生いてはるー?」ってTICへ入って来はって、その時に西成WANの構想というか、西成のどこかでデッカいアートを描きたい、手伝ってくれるアーティストの心当たりはある、スポンサーも何とかできそう、けど描ける場所がないし、具体どうしたらいいのかよくわからん・・・と相談されたのがきっかけです。
当時、2009年(平成21年)から2019年(令和元年)までの10年間、新今宮観光インフォメーションセンター(新今宮TIC*)の代表として、学生ボランティアを組織して、民設学営で運営していましした。
*新今宮TIC:Shin-Imamiya Tourist Information Center. 2018年(平成30年)春からは新今宮エリアインフォメーションセンター【Shin-Imamiya Area Information Center: AIC】
地域を底上げするような活動を展開しようと学生たちと相談して、次々と実行に移していきました。外国人向けのまち歩きツアーの実践や、新世界・西成食べ歩きMAPの作成や、西成ライブエンターテイメントフェスティバルの主催や、西成ジャズの応援や、新世界の夏祭りのお手伝いなど。おみこし担ぎにいったりとかね。
当初の新今宮TICは外国人旅行者を中心に、観光情報の提供や、旅の相談に応じていたのですが、2010年代半ばからスマホの普及や日本の観光関連業界の多言語化が急速に進み、日常業務が減って余裕ができました。
SHINGOさんはアメリカ村で色々な活動をした経験と人脈から、西成でも環境さえ整えばアートを描けるという自信を持ってはりました。でも、その環境が整っていないので、描けるのに描けない、あぁ歯がゆいなぁ、という感じでしたね。別に急いでいるわけやないけど、とにかく行動に移さな始まれへん、何とも言えへん閉塞感をデッカい壁画で打ち破りたい!というSHINGOさんのアツい想いが伝わりました。
それからさっそくSHINGOさんの話をゼミで共有しました。そしたら当時のゼミ生たちも感化されて、「やりましょうよ先生!」と、かなり乗り気。TIC運営の合間を縫って、ゼミ生らとあちこちへ視察に行きました。近場ではアメリカ村の壁画やアート電灯とか、北加賀屋のアートとか。あとそれから台湾に。
ゼミの卒業旅行で台湾に行ったんです。台北の西門町や高雄の駁二(バクニ)芸術区とか、ストリートアートをまちづくりに活かしている現場を視察しました。そういった学びを通じて、ただアートを描くだけではあかんということ、このプロジェクトがまちの底上げにつながって、地域を元気づけるような、そこから何かが始まるようなきっかけにしたいと思うようになりました。そのためにも、地域の人たちに納得してもらうためにも、理論武装というか、理屈がいるであろうと。その役割はSHINGOさんでなくて私がやらなあかんと思っていました。
勝手なことやりよるって言われてしまいますからね。やっぱり地域の方々に納得してもらわないと進められませんから。視察もして学習もして、ココルームの上田假奈代さんにもアドバイスをもらって、西成WANの企画書ができたのが2014年(平成26年)春くらい。その企画書をもって、SHINGOさんらと地域の寄り合いへ出て、地域のキーパーソンの方々に納得してもらい、協力をとりつけました。その後は、地域の町会長さんにも説明して回りました。
そうですね。地域の人たち、それから道を往来する人たちも、いつも目にするアートになるので、やはりお家のなかに飾る絵とは違いますからね。将来的には公共性の高いところ、例えば、高速道路の高架とか、堤防とか、駅舎とかにも、この西成からアートを広げていきたいという想いがあったので、とにかく地域の人たちには丁寧に説明して、活動の趣旨も理解してもらいたいから説明と準備には時間をかけました。
ちょうど、いまみや小中一貫校ができる頃だったんですよ。そのとき地域の課題となっていたのは、子どもの減少と通学路の安全安心の確保でした。西成区の弘治小学校、萩之茶屋小学校、今宮小学校が統合して、2015年(平成27年)春にいまみや小中一貫校が開校する予定でした。校区が広がるので、地域の子どもたちの通学路が変わり、通学距離ものびる状況でした。
その小中一貫校の東側、南海本線の西側の道路は、かつて早朝から露天商が立ち並んでいたところで、粗大ごみの不法投棄も多く、落書きも多いところでした。その道路が通学路になるということで、行政も不法投棄の対策をし、広い歩道が整備され、明るい街灯と防犯カメラが設置されました。
そうそう。でも考えてみてください。なぜ粗大ごみが捨てられるのか、なぜ落書きが多いのか。それは人通りが少なく、他人の目が届かなくて寂しいところだからじゃないのか。街灯で照らして防犯カメラで見ても、本当に効果はあるのか。
それよりも、落書きの多い壁に外から人が見に来るようなアートを描いて、もし人が見に来るようになれば、人の目で安全や安心を確保できるのではないかと。またアーティストと子どもたちが一緒にアートを描けば、子どもたちのまちに対する意識も変わり、まちへの愛着も湧くはず。みんなで完成させれば、達成感も共有できるはず。という想いもありました。
地域の子どもたちの人気者でリスペクトされているSHINGOさんが、アートを描く輪の中心にいるので、子どもたちも参加してくれるだろう、巻き込めるだろうと確信していました。
西成WANは、Nishinari Wall Art Nipponの略称で、この西成からWall Artを日本中へ広げていこう、という想いが込められています。アーティストにもかなり無理を言って協力してもらいましたが、彼らの協力がなければ、西成WANの今の姿はないので、関わってくれたアーティストたちには本当に感謝しています。
その代わり西成WANに関わってくれたアーティストは、地域の人たちから感謝されリスペクトされるよう、気持ちよく関わってもらえるよう、その環境だけはしっかり整えようと真剣に考えました。SHINGOさんも私も気を使いました。そのためにも、地域との関わりでは絶対に失敗できなかったので、アートが地域へもたらす効果や意義づけをしっかり考えて、地域への説明も丁寧にやりました。
ストリートで合法的にアートを描ける土壌をつくるというか、アートの畑を耕すイメージですね。その畑でアートが根付いて花が咲いたら、西成から日本各地へ、他のところも真似して広がればいいなと思っています。ただ、心配なのはアートを描くという結果というか、美しい花を咲かせるという形だけ真似するのは、誰でも見られるストリートのアートだけに良くないと思っています。その土地、その地域に応じた土壌づくりが大切で、西成WANの結果だけではなくアートを描くに至ったプロセスから色々と学んで欲しいところです。
ええー!ってなりますよね。たとえば家の前の壁とか通学路に描かれたら毎日見ますしね。地域の人たちと対話しないで描いたら、そりゃ嫌がる人もでてくると思います。地域の人らに理解していただいて味方にしないと。
まず一番お世話になったのは、やはりアーティストたちですね。立ち上げから協力してくれたCASPER、VERYONEの二人は西成WANの恩人で、ZENONE、MIZYURO、LOVEATTACKにもよく協力していただきました。この他にも多くのアーティストにご参加いただいたのですが、アートを描いていただいたのは、QP、KICHI、DELS4、JOE、DEMSKY、HIZE、SUIKO、ZOSEN & MINA、TITIFREAK、NOVOL、PERSUE、YAS5、COOK、YOSHI47、SFONE、YIPS、RINDA、AMEなどなど。グラフィティ界の巨匠や、ワールドワイドで活躍されているレジェンドもいて、実にすごいメンバーです。
そうでしょう。でもみなさん、西成WANの趣旨にご賛同いただき基本ノーギャラ、地域の名店でお礼の打ち上げパーティをするくらいでした。近くでお寿司や焼肉をご馳走するとか。アーティストには本当に感謝してます。
それと最初から、西成WANを支え続けてくれているのが、Molotowスプレーの輸入代理店Calmaartの柳洋輔さんと、Red Bull の大杉義信さんのお二人です。アートスプレーはいつもCalmaartから協賛でご提供いただいています。ご自身もアーティストとしても活躍されている柳さんは、アート界で人脈と人望をお持ちなので、アートプロデューサーの役割も担っていただいてますね。Red Bullには資金面でのご支援だけでなく、完成時のイベントでは大杉さんがいつもRed BullのDJカーで盛り上げてくれます。この二人はスポンサーというよりも、むしろ同志、志に賛同して協力を惜しまない仲間です。
当然、総合プロデューサーのSHINGO★西成さんもそうです。彼が西成WANの真ん中にいて、いつもポジティブな言葉や行動で引っ張ってくれているから、アーティストも地域の子どもたちも、私たち同志も頑張れています。
うちのゼミ生もボランティアで、アーティストのお手伝いとか、地域とのつなぎ役などで活躍してくれています。西成WAN最初の作品である「ここから いまから」では、小学校低学年から高校生までの地域の子どもたちが、2、30人くらい参加してくれました。西成WANの第2弾や第3弾でも、この時の子どもたちが参加しました。その後も西成WANは描き続けているのですが、この時の子どもたちが現場に来て「おっちゃん、僕のこと覚えてるか」と声をかけてくれますね。
あと元気づけられるのが、西成WANの応援団のような人たち。地域の人もいれば、遠方からわざわざ来てくれる人もいます。いつも応援してくれる地域のおばさんもいて、おにぎりとかサンドイッチとかをドサッと差し入れてくれます。飲み物を買いに最寄りのコンビニに行ったら、おにぎりとサンドイッチの棚が空っぽになってて、あぁここで買ってくれはったんや、って(笑)
地域の人にも理解していただいてCalmaartやRed Bullから色々と協賛してもらい、アーティストはボランティアで参加してもらっていますが、活動資金の確保は困っています。最初は私がいただいた「第16回なにわ大賞」の賞金の一部とRed Bullからの協賛金でスタートしました。その後、クラウドファンディングを一度やって、SHINGOさんにスプレーの空き缶やTシャツにサインしてもらい、リターンにしたんです。この時たくさんの方々から支援していただきました。ありむら潜さんが事務局長している釜ヶ崎のまち再生フォーラムからも協賛金をいただきました。
資金面で一番大きかったのは、SHINGOさんが「たかじんAWARD*」で獲得した賞金。全額そのままドサッと寄付してくれました。基本、SHINGOさんや私の寄付と、協賛で集めたお金で活動しています。
西成区さんから何かとご協力していただいているので、良く誤解されるんですけど、西成WANは、税金は使っていません。行政から金銭的な支援を受けると、色々と活動が制約されてしまいますからね(笑)。地域の人たちだけでなく、もっといろいろな人を納得させなあかんようになるし。ですから、西成区役所の方々にはいつも、お金はいらんから一緒に汗かいて、西成WANの味方になって、とお願いして協力してもらってます。例えば、南海電鉄高架下の壁にアートを描く際には区役所から南海へ協力依頼をすることで無償協力をしてもらっています。地域の人たちへの説明や広報も、区役所と協働しているから、信用してもらえるし安心もしてもらえます。西成WANは、税金を使わんと公共性の高い空間にアートを描いてきましたが、それができたのも、こうした新しい形の官民連携があったからやと思います。
*たかじんAWARD:やしきたかじんさんの遺志を受け継いで、大阪のために頑張ってくれた人や、大阪のために頑張っている人たちを表彰している
西成WANはこれまで第1弾から第9弾まで実施されているのですが、その中でも特に思い入れが深く、お気に入りの作品は、圧巻のスケールだった第2弾「アセラズクサラズアキラメズ」ですね。残念ながらこの作品は現在、あいりん総合センターの仮移転にともない無くなってしまいました。
当時は日本で最大のスケールだったと思います。今では写真でしか見れませんけど、関わった人も多く、コンセプトも出来栄えも最高の作品でした。あれが完成した時のやり遂げた感というか、達成感は半端やなかったですね。それをアーティストやスタッフだけでなく、完成披露パーティで集まった子どもや地域の人たちとも共有できた、本当に最高でした。
最も嬉しかったのは、いまみや小中一貫校の生徒たちが卒業する際にグループごとで西成WANの好きなアートのところに集い、記念写真を撮影していた、という話を聞いた時でした。西成WANに参加した子どもたちが、作品をまちのシンボルと認識して、その製作に参加できたことを誇りに思ってくれていたら、それが何よりの成果だと思います。まちを歩いていて、西成WANの作品をスマホで撮影している人なんかを見かけても、あぁやって良かったなと実感します。
西成には実のところ、西成WANで描いた作品以外にも、色々なアーティストが様々な形で作品を残しています。理想的な楽しみ方は、西成WANで描かれたアートを目指して歩いて回りながら、それ以外のアートも含めてみなさんが発見して、ふと気がついたらまちをひと巡りしていた、という感じです。歩いて回る途中には、アート以外でも、色々な発見や楽しみが見つかると思いますし。西成WANのアートがまちを歩いて回るきっかけとなれば、それが理想ですね。ストリートなのでお金もかかりませんから、ぜひ。
あ、あと一番いいのは、まちを知り尽くした人にくっついて、その人と一緒にそのまちを巡ることです。大阪弁というか、大阪的な感覚で、「ツレのツレはツレ」という言葉があります。自分の友達がいて、その友達の友達がいる、自分の友達の友達なのだから、それは自分の友達と同じやん、初めて会ったけど、という大阪ならではの感覚ですね。知らないまちへ足を踏み入れる場合、この感覚というか論理はとても重要です。
私もSHINGOさんや、この特集でも登場した西口宗宏さんに連れられて、地域の名店をずいぶんとはしごしましたよ。「あぁそう、SHINGOさんのツレですか」「そうかいな、西口さんのツレなんや」って。私の存在がツレのツレとして受け入れられて、あっという間にツレとして認識されて仲間の輪に入れる、という場面を何度も経験しました。これがコミュニティツーリズムの発想です。
何て言えばいいのでしょうか、新今宮は都会やけれども実は田舎的なところもあります。新今宮界隈には、チェーン店でないお店で、常連さんがしっかりいて、なかなか入りにくいようなお店が多いでしょう。そうしたところは田舎的なのですが、基本、来訪者はウェルカムなので実は都会的。そのお店の常連さんと一緒に行ったら、あなたもツレのツレとしてすぐ仲間の輪に入れます。都会やけれども田舎で、田舎のようでいてやっぱり都会。この絶妙な間合いが新今宮の魅力だと思います。
監修・協力:西成情報アーカイブ