JR新今宮駅から天王寺駅の方へと東へ歩いて5分ほど、阪神高速道路の阿倍野入口の下に「上方演芸発祥之地 てんのじ村記念碑」という高さ6mほどの大きな石碑がある。
二重の柵に囲まれて近づくことのできないこの石碑はその意味を知られることはほとんどない。ここは、芸人の聖地。今私たちが見ているお笑いもここがなければ存在しなかった。
由緒は古く、1400年ほど前の四天王寺創建時から。四天王寺周辺には伶人(れいじん)と呼ばれる人が住んでいた。伶人とは雅楽などを演奏する人たちのことであり、今でも伶人町という地名が四天王寺の西に残っている。天王寺村の西側には、道頓堀や難波新地など昔からたくさんの芸人が芸を披露する地域が広がっており、昔からたくさんの芸人が住んでいた。
伶人町から上町台地を下った地域は1903(明治36)年の第5回内国博覧会の会場となり、後の「新世界」となり、たくさんの劇場が生まれた。この新世界の南に接する天王寺村、後に山王と称されるエリアは、手ごろな長屋街で、劇場も近く、地方巡業への交通の便もよく、飲食店や風呂も遅くまで開いていて、芸人にはこの上なく便利な場所であった。
第二次大戦争が起こり、空襲で家を失い散り散りになった芸人たちを演芸斡旋事務所(今でいう芸能プロダクションのようなもの)が安く住居を提供して住まわせた。ここは大阪の中心に近いながらも被害があまりなかった。また、多くの劇場が焼けてしまった中で天王寺館という演芸小屋もあり、戦後の混乱の中で芸人たちがお金が稼げる数少ないところであった。まさに芸人のセーフティーネットとなったわけである。
狭い町に最盛期には400人もの芸人がいた。後に国民的スターとなる、ミヤコ蝶々、海原お浜・小浜(小浜さんは海原やすよ・ともこさんの祖母)、夢路いとし・喜味こいしなど、苦しい生活を互いに助け合って生きた芸人たちはこの場所、天王寺村に親愛を込めて「てんのじ村」と呼ぶようになった。
当時のことを知る方複数にインタビューを行った。以下に紹介していこう。
親子三代、夫も芸人。今川宮子さん
私は1950(昭和25)年、6歳の時にここに来てね。私のおじいちゃんも芸人で、母親も芸人。母親は東みつこといって相方の南ふくこさんと2人で三味線を持って芸してたんよ。
私も松旭斎二三子(しょうきょくさいふみこ)という芸名で奇術師してたんよ。今でいうマジックやね。お腹大きなってからやめたんやけどね、3年ぐらいやってたかな。旦那も芸人でクエスチョンボーイズという5人ぐらいの楽団しよってん。芸人いうても今の芸人は漫才師ばっかりやけど、当時は奇術師、浪曲師、三味線弾きといろいろおったからね。
そうやね、みんな練習したりするから三味線の音がしょっちゅう鳴っとった。うちのお母ちゃんもしょっちゅうやってはった。ああまたやってるーって思てたな。踊りとかもな。私は嫌いやったけどな。漫才の人もみな家でできへんから公園とかで練習しとったよ。喧嘩もようあったね。みんな口が達者やからおもしろかったよ。
長屋住まいやったね。昔はね恥ずかしいけどね一軒の家にベニヤ板貼ってね
6畳の部屋やったら半分にして安い家賃で貸してはったんですよ
これ言うたらあかんね。ははは(笑)そんなんして安くして借りてはった。
近くにあった中井さんって質屋さんも、もう閉めはったけどあそこのとこなんて芸人さんよう着物もっていってお金あれしてもらってね。そんで、働いて帰ってきたらそのお金でまた着物引っ張り出して。で食っていけんなったらまた着物を質に入れた。当時はみんなそんなんしてやりくりしてたな。
戦後はみんな貧しかったからね。ここら辺の仕事だけでは食って行かれんから巡業巡業で地方に出て行ってはったな。山陰とか四国とか。あの頃は貧しい時代やから口減らしというのもあったね。自分らが出て行けば巡業先で食べれるから助かるでしょ。親が巡業行っている間はごはんとかもみんなしてくれてはって近所の人に世話なったなあ。
うちのおばあちゃんが言うてたのに、私は魚が好きでイワシを昔ね、「手て噛むイワシ(手を噛むぐらい新鮮なイワシ)」や言うて売りに来てはったんよ。それをおばあちゃんが私のために買ってくれたんやけど。
「あんたのためにどんだけ着物を質屋にもってったか」ってよう言われたわぁ。
でも1人で卵焼きもしましたよ(笑)。隣の人が風邪引いた言ったら近所の人がおかゆさんもってってあげたりね。街全体が親類みたいやね。
大変そうやったからね(笑)三味線習っても天井を見とったから踊り習っても頭動かへん。そのくせ盆踊りいうならすっ飛んで行ったもんな。地蔵盆がすごかったんよ。踊りのうまい芸人が先頭立って住人があとついて歩いてあの地蔵盆を盛り上げとったなあ。
20年か30年くらいやね、みんなここにいてはって忙しかったのは。海原お浜・小浜さんとか、若井はんじ・けんじさんが売れて出て行ってぐらいからみんなどっか行ったね。あと高速道路ができて立ち退きになったんと、火事も何回かあったりして街が変わったのも大きいねえ。
私はずっと住んでるねんけど、猫がかわいくてね仕方なくてね、猫のエサ代稼ぐために働いとるんよ。
てんのじ村を描いた直木賞作家 難波利三先生
個人的な話なんですけど、私、直木賞に5回も落ちて次何を書こうか探してる時にある人が「大阪にてんのじ村という芸人の集まった一角があるからええんちゃうか」と教えられて取材に行ったんですよ。そしたらそこの人たちは癖が強くて「わしは小説に書いてもらうような芸人とちゃう」となかなかOKをくださらなかったですね。
でも粘って行っているうちに吉田茂(小説では花田シゲル)さんという方が小説のとっかかりになりそうだったので話を何度か伺いました。この方は「かぼちゃ」という芸を持っていて、テレビで出演する芸人さんと違うからその芸を見ることができなかったんです。いつ見られますかと聞いたら、「正月に寝屋川の成田山不動尊でやる」というので行ったんです。
で、実際見たらね、吉田さんが小学生の帽子かぶって着物着て、丈の短い袴履いてしゃがむ。それが子供みたいに見えるんです。帽子かぶっているから頭の大きな子に見える。それを「かぼちゃ」って命名してその格好で舞台を歩きながらだんだん背伸びしていく芸でした。
これは正直言って厳しかった。とても小説にならないと思ったんです。帰りには断ろうと思ったんですが、長い間かかってようやくOK貰ったものを1回見て即断るというのは失礼でもあるしと迷っていたんです。それから向こうからどんどん「難波さん!今度四国いくのどうです?」「奈良行くのどうです?」と電話がかかってきて引っ張られるようについて行きました。
半年ぐらいだらだらしているうちにある時私自身の大きな間違いに気づいたんです。私は芸ばっかりに目が向いていたんですね。こんな拙い芸は小説にならないと思っていた。でも、ぐっと視点を変えてその拙い芸に人生を賭けてきた、その芸人魂みたいなものにポイントを置いたら小説になるんじゃないかなあとようやく気づいたんです。そこからは本気で取材をさせてもらいました。小説の中の人物で半分くらいは実在ですね。吉田さんと晩年までコンビを組む三味線の東みつこさんとか。(東さんは今川さんのお母様である。)
落語家の六代目笑福亭松鶴さんに聞いたんですがね、戦後のもののない食料難の頃に漫才の下手な男の漫才師がいた。彼は漫才が下手だからだれもコンビ組んでくれない。水道の水ばっかり飲んで栄養失調で倒れる寸前で、当時まだ売れていなかったミヤコ蝶々さん、海原お浜・小浜さんとか周りの芸人さんたちが彼を見かねてね、自分たちも懐具合が苦しい中、いくらかお金を出して彼のところに持って行くんですね。それを彼が喜んで受け取ると思ったらそうじゃなくて、「俺は乞食やない。お前なんかに恵んでもらういわれはない。持って帰れ」って言ってお金を投げ返した。
ほっといたらこの男は死んでしまう。みんなが知恵を出してある一人が「あいつ漫才下手やけど絵が上手や。絵を描かせたらお金をとるんとちゃうか」と言いまして、出かけて行って彼に絵をお願いしたわけです。
「これは恵むんと違うとお前が絵を描いたらその絵に対してそのお金をやるんや」と。彼はそれやったらやる言うたんです。でも、ただの絵頼んでもつまらんから、商売繁盛で縁起がええからと長屋の木の壁にお稲荷さんの絵をお願いしたんです。そしたら、その漫才師がクレヨンでほこらを描くんですよ。そこへ蝶々さんが5円寄付されると絵の中に実際の神社にあるみたいに「金五円也 蝶々姉さん」「金三円也 小浜姉さん」とかって書いていくんですよ。
この話が好きなのはね、最初に断りよった漫才の下手な男のプライド、人間としての矜持みたいなものと、それを見捨てなかった周りの人情と、その二つが立派でね。芸人というより人間としてのプライドと街の人情がうまいこと噛み合ったエピソードだなと思って、この話あちこちでしゃべってるんです(笑)
あとね、小浜さんから聞いた話もあってね、小浜さんはてんのじ村におるときは「ひなたぼっこの小浜であります」って言うんです。「なんですのって」聞いたらね、「冬寒い時ね炭買うお金ないから日向のところにずっとおって、ひなたぼっこの小浜でっせ」って言っていたそうで。
「みんなどんなに仕事がなくて貧乏で食うもんがないような状態でも、米とか醤油とか分け合って、助け合いながら、他の仕事は一切せんかった。絶対に本芸以外はアルバイトはせんかった。『他の仕事したらあかんぞ、そっちへ流れるから芸をずっとせなあかんぞ』と漫才作家の秋田實先生から言われました」っておっしゃってました。それを忠実に守っておられたんでしょうね。なまけものって言われるけどそうではなくて自分の芸に対してそれだけ誇りを持っていたってことじゃないかなあ。あの小さな一角でこんなふうに300人から400人ぐらいの芸人さんたちが切磋琢磨して蠢いていたというのがすごいことやねえ。
売れたいった人が出ていくというのもあるけど、やっぱり一番には阪神高速ができて長屋が3分の1くらい立ち退きでなくなってどっかに移られたり、年をとった人が廃業されたりっていうのでしょうね。吉田茂さんはてんのじ村を離れずにずっといらっしゃったのですが、やっぱり立ち退きでてんのじ村内で引越しをせざるをえなかった。追い出されるようなかたちで出て行った人もおられたんでね。
テレビも大きいですね。それはもう演芸全体にそうだと思いますけど、ラジオくらいはまだよかったんですけどね、テレビになってから姿形が映るようになって見てくれがいい方が売れるんですよね。舞台だけだったらまだ誤魔化しが効くでしょうけどテレビはなかなか誤魔化しが効きませんしねえ。だから、テレビと高速がてんのじ村が廃れた原因でしょうね。
私は今宮戎マンザイ新人コンクール(多くの若手芸人が出場する伝統あるコンクール)の審査員をずっとしているんですが、今の漫才師たちは何か良きにつけ悪しきにつけ生活感がないんですね。自分たちだけに通ずるようなネタを得てすれば漫才としてしまいがち。生活の中からヒントを得たり掴みとってきたものではないように感じるんですね。軽々しい思いつきだけで漫才をしているようなところが見える。漫才というのは生活の中に溶け込んでいる娯楽だと私は思うんでね、やっぱり漫才のネタの中にそういうのが匂うものが好きですね。
だから今の若い人たちはやっぱりあの本物の芸という言い方は妙ですけれど、古き良き芸能を大衆芸能をちょっとこう振り返って見たり聞いたりしてほしいんです。ただ懐かしむだけでなく芸人さんの生き様みたいなものも自然と嗅ぎ取れるような気がしますので。昔の方の芸には人生がにじみ出ているんです。
そうしてくれたらうれしいねえ(笑)
てんのじ村の芸人魂を今に引き継ぐちんどん屋
ちんどん通信社 林幸治郎さん
僕は1981(昭和56)年に大学を出て、そこからちんどん屋をずっとやってます。飛田に青空宣伝社というのがあってそこで住み込みを始めたんよ。まだまだあの界隈に小料理屋がたくさんあって流しの人とか三味線とかギターとかアコーディオンとかそういう方々がたくさんおってね。その頃はカラオケよりも伴奏する人呼んだ方が早かったんやね。
あの辺には独り身の労働者が多くてね、例えば10日間仕事に行ってきてお金が入った。六畳一間の家に帰ってもおもしろくない。小料理屋のおかみさんをフィクションの架空の妻として「おい帰ったぞ」「おかえりなさい」みたいなことしてたんです。とはいえ、お店には今みたいにテレビも置いていないし、しゃべっていても寂しいし、流しでも呼ぼかみたいになって、場合によっては表にも通っているし電話でもかけたらすぐに流しの組合の人が来て「えらい稼ぎはったんやね」「さすが大将えらいわ」とか話を聞いたり褒めてくれる。
天下茶屋東の方のアパートに住むんですけど、普通だったら声を大にしてこんなところでちんどん屋してるって言えないんやけど、ところがその辺りだと「うわあいい仕事してはるやん」って。まあみんなそれ以上に人に言えない職業の人が多かった。住んでいる界隈のおばちゃんでも一番いい職業というのがパチンコ屋の景品交換でね、それが公務員みたいに年金もあれば退職金もあるし保険もついている。それが女の人にとって憧れの職業やね。
天下茶屋北一丁目から山王町に行くことはほとんどなかったんですよ。風呂屋さんに行くくらいでね。山王町なんて僕らにしたら高級住宅街という芦屋のようなイメージ。ちんどん屋の見習いからしたら山王町の芸人さんは何段も格上ですわ。
ぼくからしたら全然格上です。付き合いがあったのは一度は大阪の浪曲協会の会長になっていた浪花歌笑さん。親の代から末代まで芸人の非常に面白い芸人さんでして、前は駄菓子屋やったりね、僕の時はスナックやっていましたけど遊びに来いとかいって、それで今度は三味線やなしにクラリネットで浪曲をしたいんから、なんとかやってくれとかお願いされたりね。
林家染三さんっていう落語家さんもいて、その人がまたね駄菓子屋みたいなのをやっていたんですよ。カレー1杯30円とかで「儲からへんけどもしゃあないやろ飯食えない子供たちがおるから」と言いながらね。要するに夜親がいない子供たちのために。こども食堂のはしりみたいなんをやってはりましたね。
山王町に行ったら芸人を派遣する芸能社が何軒もあった。電話がもう一つ普及していない時は、とにかく岡山や四国やなんとか町の役員やお祭りの責任者やらが、「大阪の山王町に行って相談したらなんとかなるわ」って言われてて、一回取引して懇意になるとあとは電話で「今度どこそこでお祭りがあって芸人が欲しい。予算はなんぼくらいで何時間かもたせてもらわなあかんけど適当に見繕ってお願いします」って依頼して、芸能社は漫才とか歌手とか奇術とか取り混ぜてブッキングする。そのグループで3時間くらいはもたさなあかんわけ。
芸人は電話は持ってないんですよ。電話の権利金がいるから。だから、芸能社の事務所で麻雀や将棋したり、喫茶店とかで顔合わせたら「おはようございます、最近どうですか」って言って仕事をもらう。だから、あの辺に芸人さんがたくさん住んでたんやね。
だいたいの人がテレビで見るお笑いだったりを芸人だと思っているけど、僕はあそこにいたおかげで目の前にいる人を喜ばすという世界では瞬間芸が役に立たないということに気づいたんやね。
瞬間ではもたない長時間の世界があるんやね。テレビでも土曜日の午後なんかにグルメ探訪とか温泉探訪とかでだらだらとやってますやん。じっと目を凝らして見ている人はいない。他のことしながらとか食べながらとか、トイレに行って戻ってきてまだやっていると3時間4時間番組ありますやん。あのだらだらを実際に舞台でやるというのがあるんですよ。その手の世界の時間感覚というのがあるんです。山王町の芸人さんが地方に行ってやっていたのはそれなんですわ。
村の集会所に昼から集まって座布団と弁当と一升瓶持って、まずは集まった人同士で久しぶりやな最近どうって話す。舞台は下手すると昼から晩までやるテレビみたいになんなとやっとかないかん。で捨てネタというね見ても見なくてもいいしかといって客席で会話していてもその邪魔にならない、時々見たら面白いなくらいのやつを数組の芸人でやってそれで3、4時間は持たさなあかん。
今は大衆演劇が3時間半。昔は4時間やっていた。歌舞伎は11時開演で3時半までやっている。あれが江戸時代だと朝からやって日が暮れるまで。相撲は朝からやから、そのスタイルが一番残ってますね。本当に好きな人は朝から見ているけど、別にみようと思わなくても相撲場に行って朝からだらだらいるんですわ。それと全然ジャンルが違うウッドストックなんかもわーっとやっているようであそこにみんな集まっていることに意義があってみんな寝そべっているあの世界ですわ。自分の贔屓が出たらわーっとそれ以外の時は適当に。その世界があるというのを地方に行くとつくづく感じている。
山王町の芸人さんが減ってきたおかげで我々が今まで行っていた岡山の山奥の村の祭りだったり滋賀県の奥の神社の境内でやるやつに行くんです。3時間も持たせないといけない。これが30分で終わるじゃあかんわけですよ。
いとしこいしさんの対談を読んだんですが、昔ね、砂川捨丸という大御所がいてテレビに出るときは「漫才の骨董品でございます」とか、鼓をぽんと打って頭をはたかれるそういうボケかかったおじいさんとしてしか出てこなかったんですけど、いとしこいしさんが若手の頃、岐阜の歌舞伎小屋にそういう漫才数組でいくような仕事があった。一人あたり30分とかやらなきゃいけないのにお客さんがざわついて一升瓶で飲んでたり、弁当食ってるで、いとしこいしさんが5分と持たなかったと。
そして数組出演したあとに捨丸さん。1時間半の持ち時間があって最初の1時間20分はみんなざわついている。最後の10分でピターッとみんなシンとなって大爆笑で終わったというのを「さすが大先生やなって感心しました」って書いてあったんですよ。芸人というのはテレビに出るとお金になるからみんなそうなっていったんですが、本当の芸人さんはいわゆる慰問というかねそっちの方が本流やったんかなあ。
僕も30年間毎年お盆に福知山の大原というところに行ってます。そこで思うんは「稀人(まれびと)」として呼んでもらっているということ。稀人ということは一種の神様かもしれないなと。普段は仏壇や神棚にお供えをするけど、その賓にお供えすることによって稀人があの世の世界とのメッセンジャーのように思えて、それをもてなすことが天にも通ずる。
伊勢の太神楽は毎年同じようなことをやるんですけどせめて40分1時間くらいのことをやらないでお祓いばかりやっていても退屈だから途中で笑えることやったりすごいなと思うことやって曲芸をやったりするんです。芸能界の本流はそっちだったなと。能もね、能楽堂でやるといかにもなんですけど、外で能をやるとあのかったるいと言われている能がかったるくないんですわ。
西日本各地ね。地方は2泊3日とかね。そういう時が一番仕事をやっていて醍醐味がある。観光では絶対に行かないような田舎の漁村だったり山村だったりに行って、そこの地元の名産品を食べたり、男はつらいよの寅さんが泊まるようないわゆる商人宿みたいなところに泊まる。
熱海の温泉街のお祭りにもずっと10何年間行ってましたけど、大きなホテルじゃなくて、小さな温泉旅館に泊って女将さんの手料理と小さな温泉に浸かるんですけど、これがまた温泉の質がよくてね。この仕事していなかったらそういうところ泊まることもないしね。
若い頃に青空宣伝社にいるときに、高知の山の中の村で2日間仕事したことがあってね、小さな旅館に泊まったんよ。そこの近所に魚屋があってね、安いなと思って魚を買うて晩飯が出る前にそれで一杯飲んだんやね。それが幸せでね、これっていい仕事やなと思った(笑)それは若い頃から変わってへんかもね。
新今宮の「てんのじ村」の痕跡をぜひともその足で巡り、たくさんの芸人が暮らした往時に思いを馳せてほしい。
てんのじ村記念碑
1977(昭和52)年、戦後の地区改変に際して、かつて演芸の再建・飛躍の拠点となったこの地によしみのある芸能人や地元有志などの協力を得て記念碑が建てられた。
大衆劇場
新今宮には 浪速クラブ、朝日劇場、オーエス劇場と3つの劇場があり、今も古き良き芸能の世界を堪能できる。かつてのてんのじ村の芸人もこの舞台に立った。
銭湯/温泉
芸人さんたちもよく通っていた銭湯。昔はもっとたくさんあったが今も数軒、当時のまま残っている。
ジャンジャン横丁
てんのじ村の芸人さんが新世界の劇場へ行く際に通った道。また「じゃんじゃん」という音は客を呼び込む三味線の音に由来する。その昔、てんのじ村の芸人さんもじゃんじゃん三味線を鳴らしていたそうな。
松之木大明神
路地裏にひっそりとある松乃木大明神。その境内にある猫塚という石碑は、三味線の胴のかたちをしているのが特徴である。付近にはたくさんの芸者や芸人がおり、三味線は芸事に欠かせないものであった。当時、三味線の胴は猫の皮が使用されており、その猫の供養のために遊芸関係者によりこの猫塚は建てられたという。
山王の地蔵
山王の細い路地にはお地蔵さんたちがひっそりとたたずむ。山王は戦争の被害が少なく、そのため残ったものも多い。戦災をうけたものでも、地域住民たちの手によって掘り起こされたり、作り直されたりと大切に受け継がれている。
監修・協力:西成情報アーカイブ